はじめに
現代の情報化社会において、デジタルデータの保管という課題は、個人から企業に至るまで、その規模を問わず普遍的なものとなってしまいました。
この課題に対する解決策として、NASに代表されるオンプレミス型ストレージと、各種事業者が提供するクラウドストレージは、しばしば比較の対象として俎上に載せられます。
SNSや任意のコミュニティを見ていると、今日においてもなお、「NASは初期投資のみで済むため、月額料金が発生するクラウドストレージよりも長期的には安価である」という趣旨の言説に、頻繁に遭遇します。
この見解は、導入時における、CAPEXとOPEXのトレードオフに関する、ある種の古典的な命題の一類型と捉えることができるでしょう。
物理的な機器を購入・所有することによる初期コストの集中か、あるいはサービス利用料として継続的にコストを支払うか、という選択は、多くの技術的意思決定の場面で現れる構造です。
NASが安価であるという主張は、この構造においてCAPEXを重視し、OPEXを極小化できるという点にその論拠を置いています。
しかしながら、わたしはこの通説に触れるたびに、ある種の違和感と、その論理構造の単純さに対する嫌悪感を覚えてしまいます。
なぜなら、その経済性の比較は、データのAvailability(可用性)やIntegrity(完全性)といった、ストレージシステムが本来担うべき根源的な責務や、総所有コストという、より包括的なコスト評価の観点を見過ごしているように思えてならないからです。
可用性と完全性
安価なNAS運用が成り立つ、その土台の危うさを考えていくと、まず「可用性」と「完全性」という、似ているようで全く異なる二つの概念の混同に行き着くように思います。
オンプレミスの文脈で、データの安全性を語る際、必ずと言っていいほど登場するのがRAIDという技術です。
これは、複数の物理ディスクを束ねて、性能と耐障害性を担保する仕組みであり、わたし自身もその恩恵を受けてきました。
けれど、これをデータの安全性のゴールだと考えてしまうのは、やはり少し早計なのではないかと感じます。
ここで明確に認識すべきは、RAIDが主として解決しようとしている課題が、あくまで「ディスクサブシステムの単一障害点を排除し、ハードウェア故障時におけるシステムの可用性を維持すること」にあるという点です。
可用性とは、システムが停止することなく、継続して稼働し、ユーザーからのリクエストに応答できる能力を指します。
ディスクの物理的故障はストレージシステムにおいて最も頻繁に発生する障害の一つであり、RAIDがその対策として極めて有効であることは疑いようのない事実です。
しかし、データの損失を引き起こす脅威は、ハードウェアの物理的故障だけではなく、この可用性の確保をもって、データの安全性が完全に保証されたと考えるのは、致命的に愚直な解釈です。
例えば、自分の操作ミスで大切なファイルを消してしまうこと。
あるいは、ランサムウェア等の外的な要因によって、データが根こそぎ使えなくされてしまうこと。
こうした論理的な破損の前では、RAIDは何の盾にもなってくれません。
むしろ、ファイルの削除や暗号化といった操作は、RAIDを構成する健全なディスクにも、悲しいほど忠実に、そして即座に複製されてしまうのです。
この論理的破損という避けがたいリスクからデータの完全性を保護するための唯一の手段が、バックアップに他なりません。
バックアップとは、特定時点への復旧(Point-in-Time Recovery)を可能にするための、運用系とは独立した静的なデータコピーを指します。
これにより、万が一データが論理的に破損した場合でも、破損以前の正常な状態へとシステムを巻き戻すことが可能になります。
効果的なバックアップ戦略の構築には、業界の標準的プラクティスとして認知されている「3-2-1ルール」というものがあります。
これは、3つのデータコピーを、2つの異なるメディアに保管し、そのうち1つをオフサイトに補完するといったものです。
ここで言う「異なるメディア」とは、単に別のSSDを用意するという意味に留まりません。
例えば、同一製造元の同一ロットのSSDは、ファームウェアのバグや物理的な製造瑕疵により、同時期に故障するリスクを内包します。
そのため、SSDとLTOテープ、あるいはSSDとクラウドストレージといった、物理特性や障害モードが全く異なる媒体を組み合わせることが推奨されます。
さらにオフサイトで保管することの重要性は、火災や水害といった物理災害への対策だけでなく、現代的な脅威に対する対策としても有用なものです。
拠点全体がランサムウェアに感染するような事態を想定した場合、ネットワーク的に隔離された、エアギャップが確保されたオフサイトバックアップの存在が、最後の生命線となり得てしまいます。
このルールを遵守したデータ保護体制をオンプレミスで構築しようとすれば、追加のハードウェア投資や、オフサイト保管のためのサービス契約が必須となり、「NAS本体の購入費だけで済む」という主張はその妥当性を失います。
不可視コストの顕在化
また、システムの導入から廃棄までのライフサイクル全体で発生するコストを考慮に入れると、オンプレミス型ストレージの経済性は、違った側面を見えてきます。
直接的なコストには、まずハードウェア本体の購入費用(CAPEX)が含まれます。
これにはNASアプライアンス本体だけでなく、その性能や信頼性に影響する各種コンポーネント、例えばワークロードに適したストレージ媒体や、24/365での連続稼働を想定したエンタープライズ製品の費用が入ります。
加えて、運用費用(OPEX)として、常時稼働に伴う電気代や、ストレージの期待寿命に基づく定期的な交換費用といった、継続的な支出も発生します。
しかし、これらの総費用(TCO)の中でも特に見過ごされがちなのが人的コストです。
ここで、「個人利用なのだから、専門業者に依頼するわけではなく自分で作業する。したがって人的コストはゼロだ」という意見もあるかもしれません。
しかし、その考え方は、TCOの本質的な意味合いを見過ごしているように思えます。
システムの構築・運用には、OSのセットアップ、ストレージプールの設計、VLANやFWといったネットワーク設定、継続的な監視とセキュリティアップデート、そして障害発生時のトラブルシューティングなど、多岐にわたる専門的な作業が伴います。
これらの作業を適切に行うには、相応の知識が必要であり、もし知識がなければ、それを習得するための学習時間も発生します。
そして何より重要なのが機会費用という考え方です。
経済学の観点では、ある選択をするために費やした時間やリソースは、それによって諦められた他の選択肢から得られたであろう価値を失った、と見なされます。
例えば、NASの構築やメンテナンスに数十時間を費やした場合、その時間を使って自己投資のための学習をしたり、あるいは休息を取ったりすることもできたはずです。
その失われた価値や便益が、実質的なコストとして存在しているのです。
抽象化レイヤーが提供する非機能要件
これらオンプレミス運用が内包する複雑性とTCOの全体像を理解した上でクラウドストレージを再評価すると、その月額料金は、事業者が提供する高度に抽象化されたレイヤーに対する対価として捉え直すことができます。
クラウドストレージは、単なるIaaSにおけるディスク領域の提供に留まりません。
多くの場合、データの冗長化、バックアップ、アクセス制御、暗号化といった機能が組み込まれたPaaSに近いマネージドサービスとして提供されます。
これにより、利用者はインフラストラクチャの下位レイヤーの運用責任から解放されるのです。
クラウド事業者は、SLAとして、例えば99.9999%といった極めて高い可用性を契約として保証します。
このレベルの可用性を個人がオンプレミスで達成・維持することの困難さは、想像に難くありません。
また、主要なクラウドプロバイダーは、地理的に独立した複数のアベイラビリティゾーンにデータを自動で同期レプリケーションする機能を標準で提供しています。
これは、個人レベルでは実現困難な地理的分散によるDR対策を、容易に実現できることを意味します。
さらに、セキュリティとコンプライアンスの観点からも、クラウドの価値は顕著です。
多くの事業者は、ISO 27001やSOC 2といった国際的な第三者認証を取得しており、そのセキュリティ体制は定期的な監査を受けており、個人運用では達成不可能なレベルの信頼性とコンプライアンス準拠を、誰でも容易に享受できることを意味します。
コンテキストに応じたアーキテクチャ設計
以上から導き出されるのは、「NASが安価である」という主張が、データ保護戦略の複雑性と、TCOにおける間接コスト、特に人的資本の価値を過小評価した場合にのみ成立しうる、限定的な命題であるということです。
もちろん、これはオンプレミスNASの価値を否定するものではありません。大容量データの高速なローカルアクセスが求められるワークロードや、学習目的でのインフラ運用経験の獲得といった特定のコンテキストにおいては、NASは依然として優れた選択肢です。
NASかクラウドかという二元論に陥ることなく、それぞれのアーキテクチャの特性を深く理解し、ワークロードの性質、求められるRTO/RPO、許容可能なリスクレベル、予算、そして運用者の技術スキルセットといった色々なパラメータを考慮し、総合的な判断を下すことが重要かと思います。
技術選定とは、単一の正解を求める行為ではなく、常に変化する制約条件下で最適化を図る、継続的な知的なプロセスです。
そのプロセスにおいて、安易な通説に流されることなく、物事の本質を多角的に見つめる冷静な視座こそが、不可欠なのではないかと、わたしは考えています。