正しさの主張
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お久しぶりです。
最近、目を背けたい事実に直面することがありました。
きっかけは、過去に自分が書いた、あるコミュニティについて論じた文章を偶然読み返したことです。
そこには、特定の人物像に対し、その行動原理を半ば断罪するかのように書き連ねる、傲慢な自分がいました。
そして、最も衝撃的だったのは、その批判の矛先が、現在の自分自身に正確に突き刺さることでした。
過去の文章で私が問題視(あるいは敵視)していたのは、他責的で、他者への要求がましく、常に自分は被害者であるという立場から世界を語る人々でした。
しかし、今の私はどうでしょう。
日々の生活の中で、自分の思い通りにならないことがあると、すぐに他者や環境のせいにしてはいないか。
自分の苦境を理解し、手を差し伸べるのが当然であるかのように、周囲に期待してはいないか。
心当たりのある節は、枚挙にいとまがありません。
自分がいかに他人に対して要求がましく、不平不満を募らせているかに気づいてしまいました。
誰かが自分の期待通りに動いてくれないと苛立ちを覚えたり、自分の苦境を理解してくれない社会や他者に対して、心の中で攻撃的な言葉を並べたりする。
その姿は、私がかつて記事の中で批判的に描写した人物像と、驚くほど酷似していました。
私がコミュニティの中に見ていた問題点は、全くの他人事などではなく、何を隠そう、私自身の内面にある課題を投影したものであったのだと。
これはまさしく同族嫌悪です。
自分の中にある、認めたくはない醜い部分。
それと同じものを他者の中に見つけ出し、批判することで、あたかも自分だけは違うのだと安心しようとする、卑劣な防衛機制でした。
以前の記事でも言及した気がしますが、「誰も私を助けてくれない」という嘆きは、いつしか「だからあなたは私を助けるべきだ」という、他者への一方的な要求に変わってしまう。
というか変わってしまった。
他者の時間や感情を際限なく奪うための、万能の呪文を私は覚えてしまった。
私も立派な化け物だったみたいです。笑ってください。
完全な被害者であるという認識は、一種の安全圏として機能します。
自分は傷つけられた側であり、悪くない。
故に、他者からの配慮や支援を要求する権利がある。
この論理は、一見すると正当なものに思えますが、容易に肥大化し、「自分は常に正しく、周囲が間違っている」という歪んだ特権意識へと変わります。
この立場に安住する限り、自分自身の問題と向き合う必要がありません。
全ての原因を外部に押し付け、自分は変わらずに済むからです。
傲慢ですね。
「誰も助けてくれない」という嘆きは、この被害者意識と結びつくことで、容易に他者への攻撃性へと変質します。
自分の価値を他者からの承認に依存していると、期待通りの反応が返ってこないだけで、自分の存在が根底から否定されたかのような感覚に陥ってしまいます。(しまいました)
すると、助けてくれなかった相手は、単なる「期待に応えなかった人」から、「自分を否定し、傷つけた加害者」へと認識がすり替わります。
こうして、本来であれば内省に向けられるべき体力が、他者への攻撃という最も安直な形で発散されてしまうのです。
私自身、ほんとに心当たりしかなくてびっくりします。
私がかつて批判した彼ら彼女らの傲慢で横暴な姿は、すでになっていた自分自身の姿だったみたいです。
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