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声高な主張よりも雄弁なもの

声高な主張よりも雄弁なもの

投稿した日
2025/07/05
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声高な主張よりも雄弁なもの

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選挙の時期になると、否が応でも街頭やインターネット上が様々な主張で満たされます。
各々が信じる正しさが訴えられ、その熱量は日に日に増していくように感じます。
そうした光景を前にした時、私はその輪に加わることへのためらいを覚えます。
これは政治的無関心とは異なり、社会の変革をもたらす方法論として、正しい意見を主張することが最も重要であるかのように語られる風潮そのものに対する、個人的な疑問です。

私がこのように考える理由は、いくつかあります。

第一に、「正しい意見」という概念の持つ主観性と曖昧さです。
もちろん、普遍的とされる価値基準は存在しますが、具体的な政策や社会問題に適用した場合、何が正しいかは個人の立場や価値観によって当然大きく異なります。
ある視点からの正義は、別の視点からは正義ではない何かとして映る可能性を常に内包しています。
この複雑性を無視し、特定の意見のみを絶対的な正義として扱う態度は、健全な議論を阻害し、思考を硬直化させる行為に他ならないように感じます。
特にSNSなどでは、複雑な問題が単純な善悪の二元論に還元され、異論を持つ相手を人格的に攻撃する場面が散見されます。
こうした運動が、建設的な社会的変化につながるとは考えにくいのです。

第二に、社会の基盤を物理的に支えているのは、観念的な主張よりも、むしろ具体的な労働であるという点です。

例えば、生活に身近なコンビニを考えてみても、そこには具体的な労働の連続があります。
商品の品出し、レジでの会計、公共料金の支払い代行、清掃。
そこでは、特定のイデオロギーが価値を持つわけではなく、社会インフラの一部として定められた業務を遂行することが求められています。
その労働の積み重ねが、店舗の運営を可能にし、私たちの生活の利便性を支えているのです。あるいは、日々見かける建設現場で働く人々も同様です。
彼らの労働は、直接的に政治的主張を行うものではありませんが、道路や建物といった社会の物理的な基盤を文字通り構築しています。

このように、私たちの社会は、無数の人々の日々の労働によって、その機能が維持されています。
労働環境や分配の問題は重要な論点ですが、それらを議論する上でも、この社会が具体的な労働の集積によって成り立っているという事実は、無視できない土台であると考えます。

この点に関して、戦後の労働運動史における総評の事例は示唆に富んでいます。
当初、労働者の生活向上を目的としていた組織が、次第に特定の政治的イデオロロギー、つまり「正しい意見」の実現を優先するようになりました。
その結果、多くの労働者が運動から離れ、組織は影響力を失っていったと指摘されています。
これは、スローガンが現場の労働者の実感から乖離した時、その動員力を失うという一つの教訓を示しているように思えます。

さらに、正しさを共有軸とする集団は、構造的に排他的になりやすいという問題もあります。
自分たちと異なる意見を間違いと見なす態度は、内部の結束を高める一方で、外部との対立を激化させます。
純粋な正しさを追求する集団が、多様な価値観を許容する健全な共同体として機能し続けることは、極めて難しいのではないでしょうか。
正しさを一致点とし、カルト化せずにやれるものならやってみてほしい。絶対無理だから。

こうして考えてみると、私は「正しい意見の主張」を声高々に叫ぶような運動に対して、どうしても賛同できません。
社会の変化を促す力は、そうした主張の中にだけあるのではなく、むしろ日々の労働や、人々が生活の中で築く具体的な人間関係の中にも存在するのではないかと思います

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