歪み
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どうも、わたしです。
先日、参加していたDiscordサーバーのほとんどから、衝動的に抜けました。
別にそのコミュニティが嫌になったとか、誰かが苦手になったとか、そういう明確な動機があったわけではありません。
しいといえば、わたしがいなくなったことに、誰かが気づいてくれるだろうか、という幼稚な実験だったのかもしれません。
まあ、自分でもよくわからないのですが。
この、自分でも持て余す歪んだ自己愛は、時に自身をも苦しめるのでしょうか。
誰かを愛することも愛されることも、好きを伝えることも伝えられることも、全部怖くて逃げてしまう。
恋愛対象として見られるのは相手が誰であれ苦手なんですけど、それはそれとして、人として愛されたいと願うことがあります。
愛されるだけの魅力もなければ、取り柄もないんですけどね。
幼い頃から、わたしは自分の好きを表現するのが苦手でした。
気持ちを面と向かって伝えることが、どうしてもできない。
正直、今も変わらないと思います。自分の弱みを握られるような強迫観念があって、「どちらかと言えば〜」とか、「私はそうでもないけど〜」のような、相手も反応に困るような、曖昧なことしか言えません。
傍から見たら、何を考えているのか全くわからない人間でしょうね。
嫌われるのが怖いくせに、相手を試してしまう。
どこまでなら受け入れてくれるのか。
どこまでなら無条件に許してくれるのか。
これもまた、歪んだ自己愛の一つの発露なのだと、そう断じざるを得ません。
自分でも、本当に気持ち悪い。一生14歳くらいの感性で生きているな、と絶望的な気分になります。
成長が、ない。
精神疾患を言い訳にして、この体たらく。
傍から見たら、きっと楽して生きているように見えるのでしょう。
でも、わたしはちゃんと苦しいのです。
誰かに受け入れられたいと願いながら、そのことを伝えることも、自ら認めることすらできない。
これは、社会的動物として、致命的な欠陥ではないでしょうか。
恥ずかしい話、これまでまともに友達と呼べる人間がほとんどいませんでした。
それなのに、無駄にプライドだけは高く、常にどこかのグループの末席に紛れ込み、そのお零れを貰うことで、かろうじて狭い世間との繋がりを保っていました。
中学生の頃は、仲の良かった子のカーストが高かったからなのか、そのお零れでキラキラした青春のようなものを、ほんの少しだけ体験できました。
もちろん、そこでも周りと自分を比較して、劣等感しかありませんでしたが。
それでも今思えば、あれは甘美な夢だったのかもしれません。
大学に進学して、人と会う機会は極端になくなりました。
高校時代の友人らしき存在とも、軒並み連絡は途絶えました。
こちらから連絡すれば返信くらいは来るでしょうが、この高すぎるプライドが邪魔をして、そんなことは到底できません。
健常者は、特に用件がなくともこまめに連絡を取り合うそうです。
わたしには、そのような相手も、コミュニケーションスキルもありません。
苦しいですね。
時間も、お金も、価値観も、全てを分かち合える親友みたいなものがほしかった。
青春ドラマのような人生を、一度でいいから体験してみたかった。
今更、どう足掻いても後の祭りですが。
先日、Twitterで相互だった方がアカウントを消すと言っていました。
向こうからすれば、わたしは数いるFFの一人でしかなく、直接言葉を交わしたのも数えるほど。
それでも、深夜にたまに流れてくる彼の投稿に、どこかシンパシーを感じていました。
彼も私と同じでインターネットをどうせ辞められないのだろうと、勝手に思っていました。
結局、何も成長できていないのは、わたしだけみたいです。
突き詰めれば、わたしは相手を自分の都合のいい形に捻じ曲げて、ただ利用したかっただけなのかもしれません。