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恵まれているということ

恵まれているということ

投稿した日
2025/05/06
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恵まれているということ

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毎日、布団の中で何となく書き続けているこのブログも、最初の投稿から1週間が経過したようです。
今日は少し、私の個人的な経験に根差した、どうにも解消しようのない感情の澱について、言葉にしてみようと思います。

これは決して、安易な不幸自慢として受け取ってほしいわけではありません。
けれど、どうしても私の中で許容しがたい、ある種の人々の存在について、その断片を書き留めさせてください。

私の育った家庭は、母子家庭であり、客観的に見ても、おそらく貧困と呼ばれる類のものだったと認識しています。
そうした環境故か、「稼ぐ」という行為に対しては、奇妙なほど寛容、いや、むしろ推奨されていたように思います。

中学に上がった頃には、古物商許可証を取得し、リースアップや廃棄されたPCやプリンタを業者から安価で手に入れ、修繕し、ECサイトで販売するという真似事を始めていました。

古物商許可証だ。懐かしいね。

当時の私は、月に十数万円ほどの、子供の持つ金額としては不相応な金額を手にしていたはずです。
同級生たちが部活動や他愛ない話に興じている傍らで、私はお金のことばかり考えていました。
今にして思えば、異質な子供だったのかもしれません。

高校への進学は、親にとって推奨される選択ではありませんでした。
しかし、私は進学を選びました。
その選択の代償といってはなんですが、「義務教育は終了したのだから」という主張の下、入学金から学用品、定期代に至るまで、高校生活に関わる一切の費用は、一部生活費に加え、自ら捻出する必要に迫られました。

高校在学中はECサイトの運営に並行してクラウドソーシングサイトでも小銭を稼ぎ続けていました。
楽に稼げるかといわれると全然そんなことはないのですが、私にできることはその程度しかありませんでした。
接客バイトなんて絶対無理ですし。

睡眠時間を削り、ひたすらディスプレイに向き合う日々。
母親の関心は、わたし自身それそのものよりも、私が家庭にもたらす金銭に向けられているのではないか、という疑念は、常に心の片隅に暗い影を落としていました。
それでも、ある種の自由が許されていたこと、そして、母親一人で私を育て上げたという事実に対しては、感謝していますし、感謝すべき点であると認識しています。

しかし、現代における貧困というものは残酷なもので、目に見えずとも、確実に人の精神を蝕む側面を持っているように感じます。
金銭的な制約によって諦めざるを得なかった選択、社会的な疎外感、将来に対する漠然とした、それでいて拭い難い不安。
そうした経験の積み重ねが、私の価値観を歪に形成してしまったのかもしれません。

故になのでしょうか。どうしても生理的に受け付けられない人々がいるのです。

親の経済力によって何不自由ない生活を享受し、その環境を当然のものとして受け止めながら、社会に対してどこか見下したような、無責任な人々。
あるいは、それなりの年齢でありながら定職にすら就かず、親に依存した生活を送りながらも、明らかに身の丈に合わない願望や要求を口にする人々。
そして、自ら稼ぐためのスキルや努力を十分に経験していないにも関わらず、根拠のない自信に基づいて他者を評価したり、啓蒙的な言葉を発したりする人たち。

それらの存在に触れるたび、私の内には、形容しがたい不快感と、ある種の生理的な嫌悪感が湧き上がってくるのです。
まるで、自分とは全く異なる論理や価値観で動いている存在を見ているような、そんな感覚です。
あるいは、これらは単なる具体例に過ぎず、根底にあるのはもっと別の、例えば自己に対する省察や、他者への想像力の欠如といったものに対する、根源的な拒絶反応なのかもしれません。

これは、不幸自慢ではないという建前の上での滅茶苦茶な不幸自慢ですが、私は並みの苦労はしてきたつもりでいます。
(井の中の蛙だったらごめんなさい)
私が経験したような苦労を、この世の全ての人々が経験すべきだ、と考えるのは、あまりに過激で、歪んだ思考であることは自覚しています。
しかし、心の奥底で、本気でそう願ってしまう瞬間があるのです。
私が苦しんだように全人類も苦しむべきだ、と。
そして同時に、他者が当然のように経験するであろう苦労は、私もまた平等に引き受けねばならない、とも思うのです。
この不公平な世界に対する、私なりの歪んだ均衡感覚なのかもしれません。

これは私の偏った経験則によるものですが、現代において、インターネット環境とPCというリソースを有しながら「全く稼ぐことができない」と主張するのは、あまりにも安易な自己正当化、あるいは単なる甘えに過ぎないのではないか、と感じてしまいます。
現に、私自身が高校を卒業するまでの間、オンライン上の媒体のみを収入源として、かろうじて生計を立ててこられたという事実があるからです。
特別な才能があったわけではありません。
ただ、必要に迫られて、できることを探し、実行しただけです。

スキルは学習や実践によって獲得するものであり、最初から持ち合わせている人間など稀でしょう。
仮に、ネットもPCもないという極限状況であったとしても、社会を見渡せば、人手を必要とする低賃金の非正規労働は、いくらでも存在しているはずです。
選択肢を選り好みしなければ、仕事がないという状態には陥らないのではないでしょうか。
それは単に、過剰な我儘に過ぎないように私には思えるのです。

自らが享受している恵まれた環境に対する自覚を欠き、努力や工夫を怠り、ただ不平不満を垂れ流す。
そうした人々の存在が、私の神経を逆撫でし、心の底からのどうしようもない嫌悪感を呼び起こすのです。

少し、言葉が過ぎたかもしれません。
しかし、これが、私の偽らざる実感であり、容易には変えられない歪んだ認知の在り方なのです。

もし、これを読んでくれた方が、無自覚にも恵まれている側にいるのだとしたら、ほんの少しだけ、その足元にあるものが決して普遍的なものではないという可能性について、思いを馳せてみていただけたら、とおもいます。

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