見られることにより、ひとは支配される
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最近、ミシェル・フーコーというフランスの哲学者の書物に触れる機会があって、どうしようもなく心に引っかかり続ける言葉と出会ってしまいました。
「見られる」ことにより、ひとは「支配」されるのだ、と。
私にとっては、まるで自らの皮膚感覚として理解できるような、奇妙な説得力をもって響いてくるのです。
誰かの視線を意識した途端、いつもの自分ではいられなくなるあの感覚。
例えば、静かな講義室でふと視線が交錯した瞬間とか、あるいは、意中の相手のまなざしを不意に感じ取ってしまった時とか。
途端に背筋が伸び、自らの立ち居振る舞いの些細な点まで気になり出します。
あれはまさしく、無意識の裡に他者の評価軸という名のフィルターを通して、自らの行動を選択させられている状態なのではないでしょうか。
フーコーは、この見られる側が、いつしか見る側の視座に立って事物を思考するようになると指摘しています。
そして、さらに根源的な恐怖を喚起するのは、やがて見る側が物理的に不在であっても、その人物が内包する評価基準や価値観に、まるで自ら進んで従うようになるという点です。
彼はこの事態を、パノプティコンと呼ばれる監獄の構造に見出します。
想像してみてほしいのです。
中央にそびえ立つ監視塔、そしてそれを取り囲むように配置された独房群。囚人からは監視塔内部の看守の姿を捉えることはできません。
しかし、看守は囚人のあらゆる行動を一方的に視認できるのです。
その結果、囚人たちはいついかなる時に監視されているか判別できないという不確定性ゆえに、恒常的に監視されているかのように自己を規律するというのです。
これほどまでに巧妙な支配の様態が他にあるでしょうか。
具体的なまなざしが向けられていなくとも、「見られているかもしれない」という蓋然性だけで、私たちは自らの内に監視者を飼いならし、自己検閲を始めます。
フーコーはこの心理作用を「まなざしの内面化」と呼称しましたが、言い得て妙としか言いようがありません。
いつの間にか、その不可視の権威に従属することが日常と化し、甚だしきに至っては、その従属を誇りとして内面化する可能性さえ示唆されているのですから、ある種の戦慄を禁じ得ないのです。
「監視」という言葉。
近頃、SNSを眺めていると、この言葉が不気味なほど現実味を帯びて迫ってくるのを感じます。
他者からのリアクション数や、FFからの反応に一喜一憂する私たちの姿は、果たしてパノプティコンの囚人とどれほどの違いがあるのでしょうか。
常に誰かの評価という名の視線に晒され、見えないまなざしの圧力を内面化し、自らを追い詰めているのではないか、と。
わたし自身、他者の視線を過剰に意識してしまうきらいがあります。
それは病的とも言えるほどで、我ながら厄介な性質だと自覚しています。
些細な言動が「他者の目にどう映ったか」「この場で浮いた存在ではないか」といった思考のループに囚われ、身動きが取れなくなるのです。
それが昂進してきて、あらゆる行為が億劫になり、他者と顔を合わせること自体に恐怖を覚えることさえあります。
これこそ、フーコーの言うまなざしの内面化が、わたしの内で肥大した結果なのかもしれないと、そう思わずにはいられないのです。
まるで、見えない鎖に繋がれ、自らその手枷を固く締めているような、そんな息苦しい感覚です。
しかし、こうして思考を巡らせ、言葉として対象化することで、この得体の知れない息苦しさから、ほんの僅かでも距離を取れるような気がしないでもありません。
この生きづらさの根源にあるものは何なのか、なぜこれほどまでに精神が消耗するのか。
フーコーの投げかけた言葉は、その問いに対する一つの、しかし極めて重要な示唆を与えてくれたように思います。
私たちは、果たして真に自由なのでしょうか。
それとも、不可視の誰かの視線が張り巡らされた檻の中で、ただ踊らされているに過ぎないのでしょうか。
そんな問いが、まるで終わりのない思考の迷路のように、私の内側で反芻され続けています。
もし、あなたもまた、このどうしようもない閉塞感や、見えない圧力に苛まれているのなら、この言葉たちが、ほんの少しでもあなたの心の重荷を軽くする一助となることを願ってやみません。
あなたは、決して孤独ではないのだと、そう伝えたいのです。
このやるせない思考のループの中で、ただただ精神が消耗していくのを感じながらも、それでもなお、私たちは思考することをやめてはならないのかもしれませんね。