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不自由という名の余白

不自由という名の余白

投稿した日
2025/05/09
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不自由という名の余白

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「不便さの中からこそ、得られるモノがある」

どこかで耳にした、あるいは目にした言葉。
そう、不便益と称される概念だったでしょうか。
近頃、この言葉が奇妙なほど、私の思考の隅に引っかかり続けているのです。

かつて籍を置いた全日制の高校から、現在は通信制の大学へと学びの場を移し、時間的、物理的な制約からは少なからず解放されたはず。
それにも関わらず、どうしようもない息苦しさを覚える瞬間があるのは、一体なぜなのでしょうか。
それは、ある種の逆説を孕んでいるように感じられてなりません。

自由という言葉は、時として退屈という状態の、別様の表現なのではないか、と。
そんな考えが頭をもたげます。
むしろ、厳格な規律に縛られていた高校時代の方が、遥かに自由であったと感じ入ることがあるのです。
これは奇妙な倒錯でしょうか。
予め定められた起床時間、画一的な制服、決められたた教室での授業。
そうした、ある意味で不自由な日々の方が、私の精神にとっては遥かに軽やかであったのかもしれない、などと。

あまりにも多くの選択肢、あまりにも広大な自由を与えられた人間というのは、少し異なる視座から観察するならば、かえって困難な状況に置かれているように映ることもあります。
何をしても良い、どこへ行っても良いという状況は、一見すれば理想的な状態と認識されがちですが、その実態は、指針を失ったまま広漠とした砂漠に遺棄されたにも等しいのではないか、と。

そのような途方もない自由の中で、夢と名付けられた何かを盲目的に追い求める人々の姿は、私には甚だ不可解な光景として映ります。
それは果たして、個々人の内発的な欲求から生まれた、真に希求すべき対象なのでしょうか。
他者の価値観や社会的な規範によって刷り込まれた、借り物の理想ではないのでしょうか。

ふと、こんな思考が去来することがあります。
例えば、予約困難な高級レストランで供される、洗練を極めたフルコース。
それと対比されるべきは、幾度もレシピを読み解き、試行錯誤の末にようやく完成させた、不格好かもしれないけれど心のこもった手料理。
後者の方が、味わう瞬間の純粋な喜びや、その過程から生まれる深い充足感は、比較にならないほど大きいのではないか、と。
手に入れるまでの過程における困難さや、費やした創意工夫が、その一皿への愛着や価値を増幅させるのかもしれません。

ある対象を獲得するまでの道程が険しければ険しいほど、それを成就した際に眼前に広がる風景は、より一層格別なものとして認識される、と。
そうであるならば、私たちが本質的に求めているものは、完全無欠な自由などではなく、適度な制約や不便益の中から見出される、ささやかな、しかし確かな光のようなものではないのでしょうか。

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