よく聞く、あの言葉の解像度
よく耳にしませんか。
「弱者は救いたい形をしていない」という、あの言葉。
巷で使い古された警句のようでもあり、けれど、ふとした瞬間に心の琴線に触れて、ずしりとした重みを感じさせるフレーズ。
わたし自身、この言葉が持つ真の解像度というものを、一体どれほどの人が、実際の肌感覚として理解しているのだろうか、と、そんなことを考えてしまうのです。
ドキュメンタリーや、SNSで流れてくる美談の中では、どこか分かりやすく可哀想で、手を差し伸べやすい姿をした弱者が描かれがちです。
けれど、現実の生活の中で、あるいはもっと複雑な人間関係の中で出会う困難を抱えた人というのは、必ずしもそのような分かりやすい形をしているわけではない。
むしろ、「この人、一見すると少し厄介そうだけれど、でも分類上は弱者なのだから、あなたが理解し、救うべきでしょう」と、まるでそれが社会的な責務であるかのように、無垢な正義感を押し付けてくるような場面に、心当たりがある方も少なくないのではないでしょうか。
その無邪気さが、時として刃物のように感じられることさえ、あるのかもしれません。
物語の中の救われるべき存在
どうにも、世間一般で、あるいは無意識の領域で思い描かれる救済すべき弱者の姿というのは、どこか物語の登場人物のように、理想化されすぎているように感じてしまうのです。
まるで、あらかじめ用意されたシナリオに沿って動くキャラクターのようですらあります。
例えば、まずその容姿は美しかったり、あるいは儚げで整っていたりすることが、なぜか暗黙の了解として重視される傾向にあるように思いますし、性格はどこか従順で素直、そして少しばかり繊細であったりすると、より一層、見る者の庇護欲を刺激するのかもしれません。
こちらが救いの手を差し伸べれば、最初は戸惑いからか、あるいは過去の傷つき体験からか、数日ほどはその手を振り払うような素振りを見せるかもしれません。
けれど、それもまるで計算された演出の一環であるかのように、やがて子猫のように心を開き、こちらの期待を決して裏切ることなく、健気にありがとうと微笑んでくれる。
おまけに、その人の周囲には不思議なほど助けてくれる人が誰もおらず、その孤立した状況がまた、見る者の心を強く打ち、介入する正当性を与えてくれる…といった具合でしょうか。
そして何よりも大切なのは、こちらが時間や労力、そして時には経済的なものまで提供して救いの手を差し伸べた結果、きちんと感謝の言葉と共に、こちらが満足し、納得のいく形で報いてくれる。
そんな、ある意味で都合の良い存在を期待しているように見受けられるのです。
そんな完璧な救われるべき人間なんて、まるでファンタジー小説や、丁寧に作り込まれたゲームの中にしか存在しないのではないでしょうか。
それはもはや、生身の感情を持った弱者というよりも、プレイヤーの行動によってパラメータが変動し、好感度を上げていく育成シミュレーションゲームの攻略対象キャラクターのようではありませんか。
現実の人間は、もっとずっと複雑で、矛盾を抱えた存在のはずなのに。
泥臭さと、ままならぬ現実と
現実の世界で「救うべき」と目される方々、あるいは、実際に困難な状況に置かれている方々というのは、もっとこう、生々しくて、泥にまみれていて、関わることが決して容易ではなく、時にはこちらの善意や正義感すらも、無意識にかもしれませんが踏みつけてしまうような、そういう複雑な、そしてままならない存在であることが多いように、わたしは思うのです。
傲慢ですが、わたし自身がそうであるように、と言い換えてもいいのかもしれません。
「救いたい形をしていない」というのは、まさにその核心を突いた、ある意味で残酷なまでに正直な言葉なのでしょう。
その方の見た目や言動、あるいは性格といったものが、お世辞にも社会的に魅力的とは言い難いことだって往々にしてあるでしょうし、感謝の言葉を期待するどころか、むしろ猜疑心に満ちた辛辣な言葉を投げかけられることだって、決してあり得ない話ではありません。
何度も信頼を裏切られるかもしれないですし、こちらが心身ともに疲弊しきってしまっても、「まだ足りない」「もっとこうしてほしい」と、際限のない要求をされる可能性だって、残念ながら否定できないのです。
そこには、物語のような美しいカタルシスは、ほとんど存在しないのかもしれません。
近さだけが教える輪郭
表面的な関わりではなく、互いの領域に深く踏み込まざるを得ないような状況で、初めてその複雑さの輪郭がはっきりする…というのは、ある種の真理なのでしょう。
通りすがりの善意や、遠くからの想像だけでは、決して見えてこないものがあります。
ボランティア活動であったり、あるいは職業として深く関わる中で、もしかしたら、血の繋がった家族という、どうしたって断ち切れない関係性の中かもしれません。
そういった、ある種逃れられない関係性の中で、否応なく、その人の抱える問題や、その人自身の複雑さと向き合わざるを得なくなった時、初めてその解像度というものが、じわりと、しかし確実に上がってくるのではないでしょうか。
そこでは、理想論や綺麗事だけではどうにもならない、目を背けたくなるような現実が横たわっているかもしれません。
けれど同時に、それでもなお見捨てることができない、言葉にし難い何かが、確かに存在していることもある。
それは、義務感なのか、同情なのか、あるいは、もっと別の、名付けようのない感情なのかもしれませんが。
その輪郭は、ただ近くに寄り添い、時間を共有することでしか、見えてこないものなのでしょう。
その救えは誰のため?
「お前が関わって救え」と、まるで指先一つで、簡単に、そして正しく物事を采配できるかのように言葉にするのは、驚くほど容易いことなのかもしれません。
けれど、その軽く放たれた言葉の先にいる「お前」と呼ばれる側にだって、当然ながら感情があり、生活があり、そして限界というものが、厳然として存在するわけです。
その救えという命令は、一体誰の正義感や満足感のために発せられているのでしょうか。
共倒れになってしまっては、元も子もありませんし、そもそも救うという行為自体が、時として救う側の傲慢さや、無意識の支配欲を満たすためのものではないのか、とさえ考えてしまうことがあります。
誰のための正義なのか、という問いは、常につきまとうのかもしれません。
救済という名の支配、そして共倒れ
そして、さらに踏み込んで考えてしまうのは、安易に誰かを救おうと手を差し伸べる行為の危うさです。
それは時として、相手の自律性や、困難と向き合い乗り越える力を奪い、結果としてその人を無力な状態に留め置く、つまり、無意識のうちに支配することと、同義ではないか、という疑念です。
「わたしがいないと、この人はダメなんだ」という感情は、救う側に歪んだ万能感や優越感を与えかねませんし、救われる側もまた、その状況に依存してしまう危険性を孕んでいます。
常人であればあるほど、そのような複雑で終わりが見えない救済に関わろうとすると、自身の心が蝕まれ、首を絞められるように苦しむことになるのではないでしょうか。
相手の苦しみに共感し、何とかしたいと願う純粋な気持ちが、いつしか自身の境界線を曖昧にし、精神的なエネルギーを際限なく吸い取られていく。
期待と現実のギャップに打ちのめされ、善意が通じないことへの絶望感に苛まれる。
それは、あまりにも過酷な道程です。
だからこそ、ある意味では冷酷に聞こえるかもしれませんが、深入りせず、関わらない方が賢明である、と思います。
それは、自己防衛の本能であり、自身の精神を守るための、悲しいけれど必要な選択なのかもしれない、とすら考えるのです。
「救いにくさ」という自画像
客観的に見れば、わたしのような人間もまた、おそらくは救いたい形をしていない側に分類されている、という自覚があります。
それは、自己憐憫や特別な自己認識というよりも、むしろ、他者との間に見えない壁を築きがちな、ある種の厄介さ、あるいは扱いづらさと言い換えた方が近いのかもしれません。
例えば、差し伸べられた善意に対して、素直に心を開けなかったり、感謝の気持ちをうまく表現できなかったりすることは、決して珍しくありません。
それは、ひねくれている、というよりも、過剰な自己防衛や、他者への不信感が根底にあるのかもしれない。
あるいは、言葉の裏を読みすぎたり、相手の真意を測りかねて、結果としてぎこちない反応しか返せない。
そうした自身の振る舞いが、結果として相手を戸惑わせたり、時には失望させたりするだろうことは、想像に難くないのです。
そして、そうした経験の積み重ねが、さらに諦念を深め、他者との間に溝を作っていく。
この悪循環は、なかなかに根深いもののように感じます。
だからこそ、救うという言葉の持つ力強さや、救われるという状況の持つある種の受動性に対して、人一倍敏感に反応してしまうのかもしれません。
それは同時に、多くの人が程度の差こそあれ感じている、人間関係の複雑さの一端なのではないでしょうか。
幻想の終わりと諦観
結局のところ、理想の救うべき弱者などという甘美な幻想を抱き続けることは、あまりにも現実離れしており、むしろ危険な行為なのかもしれません。
現実の複雑さ、関わることの言葉にし難い重さ、そして時にどうしようもなく無力な自分自身を直視したとき、わたしたちの心は想像以上に脆いものなのではないでしょうか。
深入りすることなく、ある程度の距離を保つこと。
それが、もしかしたら自分自身をすり減らさずに守るための、そして結果として相手を不必要に傷つけずに済むための、唯一と言っていいほど現実的な方法なのかもしれない、と、そんなやるせない結論に、わたしは少しずつ辿り着きつつあるように感じています。
もちろん、それはとても寂しい結論であり、社会的には「冷たい」「無責任だ」と断じられることだってあるでしょう。
けれど、このどうしようもない現実の中で、これ以上心を消耗させずに生きていくためには、ある種の諦めと共に、他者との間に適切な境界線を引き、時には関わらないという選択をすることも、許されるべき自己防衛なのではないでしょうか。