どうも、わたしです。
どうにも眠れない夜です。仕方がないので、思ったことを色々ぼんやりと書いています。
先日、誰かと話していて「属性で括るのは良くないよね」と言いかけました。ギリ踏みとどまって、言いませんでした。世の中的には、たぶん正しい主張なのだと思います。
私は、偉そうな初学者が嫌いです。傲慢な人間が嫌いです。知性の乏しい人間が嫌いです。これらをこうして並べている時点で、私はそれらを思いっきり広義の属性で括っています。括ることをやめて、これらの嫌悪を表現する方法を、生憎と私は持ち合わせていません。
# カテゴライズから逃れられないらしい
聞くに、人間の認知というのは、結局のところカテゴライズを通してしか働かないようにできているらしいです。目の前にいる存在を猫として認識した瞬間、過去に出会ったすべての猫と、これから出会うかもしれない猫たちと、目の前のその子を、同じラベルの中に押し込めている。猫の名を持つラベルなしに、その存在を指し示そうとすると、認知が成り立たなくなってしまう。
であるから、「属性で括るな」という主張を文字通りに受け取ろうとすると、それは概ね「認知をやめろ」と言っているのと大差無いものだと思います。
# 現象に名前を付けているだけ
こうやって自分を正当化してきました。「ここで言う偉そうな初学者というのは、特定の属性として括っているのではなく、あくまでも私が観測した振る舞い、それそのものに名前を付けているだけなのだ」、という感じで。
ですが、よくよく考えるとこれは都合のいい言い訳でしかなくて
名前を付けてしまったが最期、それはある種のラベルになってしまいます。過去の事例を束ね、未来の事例を予期するための枠組みになってしまいます。概ね構造的には属性で括るのと、全く同じ状態です。
極論を言ってしまうと、固有名詞ですら例外ではなく、私が私を呼んだ瞬間、私は私を私として、ひとつの同一性に押し込めているという解釈もできます。昨日の私と今日の私は厳密には違う状態にある(べき)はずなのに、ラベルがそれを連続体として扱わせているためです。指示語ですら、世界を指されたものと指されていないものに分けてしまう。
言語そのものが世界を切り分けるための都合のいい道具であると私は考えます。だとすれば、属性で括らない表現というものは、原理的に存在し得ないのではないでしょうか。
# 多様性
すごく嫌な世の中になったもので、最近、多様性だとか個性の尊重だとか配慮だとか、そういう言葉が粗雑にあちこちで掲げられているのを目にします。私には到底理解できませんが、それ自体は多分良いことなのでしょう。
しかしながら、その素晴らしい看板の下で実際に行われていることといえば、結局のところ、望ましいラベルと望ましくないラベルを選り分けて、後者を排しているだけのようにしか思えません。
勿論、「ここで言う多様性が本来は社会制度上の包摂を扱う概念であって、個別の人間関係における受容を保証するものではない」という趣旨の反論はあり得るのだと思います。それはそうなのでしょう。ただ、私が主張したいのは、その制度的な議論が個人の振る舞いのレイヤにまで降りてきたとき、結局は雑なラベル運用に堕しているという点です。
個を個として受け止めるということが本当にできるのであれば、わざわざ多様性なんていう大仰な概念を持ち出す必要すらなく、一人ひとりに対してその人として向き合えばいいだけの単純な話のはずです。
しかし、現実としては殆どそうはなっていません。属性で雑に括った上で「あなたのその属性を尊重します」と不誠実な嘘をついているだけ。そんなものは、個の受容ではなく属性の追認に過ぎないのではないでしょうか。個を個として受け止められない多様性は、その時点でもう破綻しています。破綻したものを、そのまま尊重する必要があるとは、到底私には思えません。
私は目の前に立つ人間をひとりのあなたとして受け止めたいと思っています。しかし、それは決して簡単なことではなくて、私自身できているとは到底言えません。その辺の何も考えてないようなヘンテコ人間が偉そうに多様性について講釈を垂れる立場にあるのかというと、本当に疑わしく思います。
# 無関心
だからこそ、私は他社に対して程よく無関心であろうと思うのです。
無関心と書くと冷たい印象を与えるかもしれませんが、ここで言いたいのはそういうことではなくって。粗雑なラベルで他人を括って、そのラベルに基づいて勝手に評価したり、勝手に共感したり、勝手に憐れんだりしないこと。相手のことを本当に知りもしないのに、わかったような顔をしないこと。概ねそんな感じです。
前述の話と矛盾しているように見えるかもしれません。「ラベリングから逃れられないと言っておきながら、無関心であろうとするとはどういうことか」と。
私の中での認識は概ねこういう整理です。ラベル自体は認知の道具として使い続けるしかない。しかし、そのラベルを根拠に他人を裁定しに行かない、評価しに行かない、わかった気にならない。道具として使うことと、道具を振り回して他人をボコボコに殴ることは別の話だと思っています。
紛うことなき自画自賛ですが、これはある種の優しさなのだと思います。少なくとも、雑なラベリングで他人を撫でくり回すよりは、余程マシな振る舞いなのではないかと。
# 返戻
ここまで書いた上で、最初の自分の発言に立ち返ってみましょう。私は偉そうな初学者が嫌いだ、と書きました。これは、粗いラベリングだったのでしょうか。
おそらく誰が読んでも粗く感じることでしょう。「偉そう」も「初学者」も、それ自体は個別の振る舞いの束を雑に括った概念に過ぎません。本当に嫌っているのは、自分の理解の浅さに気づかずに断定してしまう態度であったり、他人の指摘を受け入れる構造を持たない振る舞いであったり、上手く言い表せませんが、そういう、もっと具体的な何かだったはずです。
それでも、私は今後もこのラベルを使い続けるのだと思います。解像度を上げきった表現は、冗長すぎて使い物にならないので。日常の言葉というのは、ある程度の粗さを引き受けることで、ようやく成立していると考えます。
引き受けた上で、自分のラベルの粗さを省みたり顧みなかったりする。(誤字じゃないですよ)
実行可能な範疇で誠実であろうと思います。

