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承認欲求と不完全な分人

承認欲求と不完全な分人

投稿した日
2025/05/11
読了まで
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承認欲求と不完全な分人

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数年前、某配信プラットフォームで配信をしていた時期が私にもありました。

その経験を通じて感じた承認というものの甘美さと、それがもたらす虚無について少しばかりの考察を交えながら書き留めておこうと思います。
これは決してネタ切れではなく、ある種の自己欺瞞とそれ故の虚無感にまつわる個人的な記録です。

実際のところ私の声は聴くに堪えないレベルですし、お世辞にも優れた話術は持ち合わせていません。
しかし、技術というものは本当に素晴らしいもので、それらを理想に近い形へと補正することが可能だったのです。
皮肉なことに、私は技術オタクであり気持ち悪いパソカタだったこともあり、ガワの調達には苦労しませんでした。
バーチャルなアバターをまとい、調整された声で語る理想的な私のようなモノは現実のそれとはかけ離れた存在でした。

配信を始め、最初のうちは視聴者からの反応の一つ一つが新鮮で素朴な喜びを感じていたように思います。
コメントや時に寄せられる金銭的な支援は現実では得難い種類の肯定として、私の心に作用しました。
それは一種の高揚感と言ってもよかったのでしょう。

しかし、配信を続け、視聴者が増え、彼らからの反応が常態化するにつれて別の感情が鎌首をもたげてくるのです。
好意を寄せられているのも、金銭的な対価を得ているのも、そして何より反応をもらえているのも、結局のところ視聴者にとって都合のいい部分だけを切り抜いて見せている偶像に対してではないか、と。
その偶像は、私のコンプレックスや内面的な葛藤とは無縁の完璧に近いペルソナでした。

ペルソナ、つまり社会的な仮面というものは誰しもが多かれ少なかれ使い分けているものでしょう。
人間は相手や状況に応じて異なる側面を見せる分人の総体である、という考え方は自己の多面性を肯定するある意味で救いのある概念かもしれません。
けれど、当時の私が作り上げたあの偶像は果たして健全な分人の一つと呼べるものだったのでしょうか。
あまりにも現実の私、特に私自身が抱える欠点から遊離し、理想化されたその姿は他の不完全な自分を許容することを困難にさせたように思うのです。
分人主義が言うように様々な自分がいて良いのだとしても、あの偶像だけが突出して肯定され他の自分が置き去りにされるような感覚は、結局のところ自己全体の調和を乱し、深い虚無感へと繋がっていったのかもしれません。

配信を終えOBSを落とし、現実の自分に意識が引き戻される瞬間、言いようのない虚無感に襲われることが常でした。
あれは演じていたペルソナと自己との乖離がもたらす、必然的な帰結だったのでしょうか。
あるいは、オンラインで得られるあまりにも安価で容易な承認という代替物が持つ本質的な空虚さの露呈だったのかもしれません。

リアルで求められない承認を安価な代替品で済ませようとするからこうなってしまったのでしょうか。
我ながら、それはある程度的を射ているのだと思います。
けれども過酷なことに、その構造を理解していたとしても、一度肥大化してしまった承認欲求というものはそう簡単には萎んでくれないものです。

この感覚は、実に厄介なものです。
承認される喜びと、その承認が虚構の上に成り立っているという認識との間で心は常に引き裂かれるような状態にありました。
それは、精神的な消耗戦とも言えるような様相を呈していたように思います。

なぜ、そこまで承認に固執してしまったのか。
それはおそらく現実世界における自己肯定感の欠如や、コミュニケーションにおけるある種の不器用さに起因するのでしょう。
手軽に得られるオンラインでの承認は、そうした現実の欠落感を一時的に埋めてくれるように感じられたのです。
しかし、それはあくまで一時的なものであり、根本的な解決にはなり得ませんでした。
むしろ、その渇望感を増幅させる結果に繋がっていたのかもしれません。

配信をやめてから久しい今でもあの時の感覚が完全に消え去ったわけではありません。
育ってしまった承認欲求は、形を変えて、未だにわたしの内に潜んでいるように感じます。
SNSでのリアクション数や他者からの些細な評価に一喜一憂してしまうことがあるのですから。

結局のところ私たちは、他者からの承認というものとどう向き合っていくべきなのでしょうか。
それを完全に断ち切ることは現実的ではないのかもしれません。
だとすれば、その欲求を認識しそれが自己の価値を規定するものではないと理解した上で、適度な距離感を保ちながら付き合っていく術を身につける必要があるのでしょう。

この悲しいような虚しいような、そんな経験は私にとって承認欲求というものの危うさと、それに対する自身の脆弱性を認識する、一つの得難い契機となったのかもしれません。
もっとも、だからといって私がこの先どうこうできるというものでもないのですが。

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