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わたしの「ググって」は、最大限の優しさです。

わたしの「ググって」は、最大限の優しさです。

投稿した日
2025/08/18
更新した日
2025/08/18
読了まで
5.10分で読み終われます (3,058文字)

どうも、わたしです。

先日、ある友人から「当たりがキツい」という趣旨の言葉を投げかけられました。
私が、技術的な初歩に関する彼女の問いに、手取り足取り教えなかったことへの不満のようでした。
その言葉の奥には、「友達なのだから、専門知識を無償で提供して当然だ」という、無邪気な、しかしあまりにも一方的な期待が透けて見えて、正直、かなり思うところがありました。

悪意がないことは分かっているつもりです。
でも、私はこの「友達だから」という言葉に、嘗められているような、そんな感覚を覚えてしまう。
なぜ、友達という関係性が、一方の専門性を無償で引き出すための免罪符になるのでしょうか。

その知識は「単なる詳しさ」ではなく「専門性」である

まず、この問題の根底にあるのは、わたしの持つITの知識が、単なるPCに詳しい奇人として見られている、という事実です。
でも、それは全く違う。
私が持っている技術は、膨大な時間と労力、精神的なリソースを投資して築き上げたある種の専門性であり、これでご飯を食べている技術者としての基盤そのものなのです。

この構造を、他の専門職に置き換えてみれば、その奇妙さがより明確になるでしょう。
あなたは、弁護士の友人に友人だからという理由で、継続的に無償で法律相談を求めるでしょうか。
デザイナーの友人に対して、「友達でしょ?」と言って、イベントのロゴ制作を気軽に依頼するでしょうか。

おそらく、返ってくるのは「は?何言ってんの?」という困惑の表情でしょう。
なぜなら、それが相手の専門領域であり、本来は正当な対価が支払われるべき労働だと、誰もが理解しているからです。
エンジニアリングも、それらと全く同じ、高度な専門性が求められる領域なのです。

友人関係と専門性

ここで改めて問いたいのですが、プライベートな友人関係において、自身のプロフェッショナルとしての立場を意識することは、本当に冷たい態度なのでしょうか。
私は逆だと考えています。
対等で健全な関係を長く維持したいからこそ、互いの専門性とその背景にある見えないコンテキストを尊重し、適切な境界線を引くことが不可欠なのです。

友人関係が互いの人格や人生に対する尊重の上に成り立つものであるならば、相手が血の滲むような努力の末に築いた専門性もまた、尊重されて然るべきです。
無償での知識提供を安易に期待するのではなく、まずは相手の専門分野に敬意を払うこと。
その姿勢こそが、対等な友人関係の土台となるのではないでしょうか。

教えることの地獄

さらに言えば、「教える」という行為は、単純な知識の伝達ではありません。
特に、前提知識が大きく異なる相手に教えるのは、私(あるいは多くの人)にとって地獄に近い作業です。

仮にディレクトリについて質問を受けた際、善意から「ディレクトリは、Windowsのフォルダみたいなものだよ」と答えたとします。
しかし、相手がPCよりもスマホに親しんでいれば、今度は「フォルダって何?」「Windowsって何?」という問いが返ってくる。
一つの問いが、前提知識の断絶によって次々と新たな問いを生み出し、説明が無限に連鎖していく。
無限ループって怖いですね

このやりとりは、教える側に極めて大きな精神的負荷を強いるのです。
相手の知識レベルを推し量り、適切な言葉を選び、理解度を確認しながら進める、という一連の作業は、本来教育のプロが担うべき専門的な役割です。
開発のプロが、教育のプロとは限らない。
その専門外の労働を、プライベートな時間を使って無償で行うことを期待するのは、やはり過大な要求ではないでしょうか。

敬意とかないの

勿論、最初は誰でも初心者であるという事実に異論はありません。
しかし、その事実が「だから、誰かに無償で教わって当然だ」という結論に直結するわけではないのです。

私自身、誰かに手取り足取り教えてもらったわけではありませんし、エラーメッセージと泣きながら格闘し、夜な夜な英語や中国語の技術記事を翻訳して、そうやって、好きだからこそ独りで学んできました。
多くの専門職の人間が、そうやって自分の道を切り拓いてきたはずです。

だからこそ、質問をする前にまず自分で調べるという行為は、単なる手間以上の意味を持ちます。
それは、相手の時間と専門性に対する、明確な敬意の表明です。
「自分は、できる限りの努力をしました。その上で、どうしても解決できない点について、あなたの専門的な知見を借りたい」という姿勢は、相手に対する誠実さの証左となります。
そんな問いを、無下にする人間はそう多くないはずです。

教えてもどうせ覚えない

ここからは、少し意地悪に聞こえるかもしれません。
初歩的な段階で、すぐに人に聞いてくる人って、そもそも、覚える気がないことが多い。

いや、本人に悪気はないんだと思います。
覚えようとは思っている。
でも、その姿勢が、知識を定着させるプロセスから一番遠い場所にあるのです。

「わからない→人に聞く→その場で解決→忘れる」

このループに陥ってしまっている。
自分で苦労して調べたことって、なかなか忘れないでしょう?
エラーの原因がわからなくて半日かけてネットを巡って、ようやく見つけた解決策。
そういう苦労と結びついた知識は、脳に深く刻み込まれます。
でも、人に聞いてポンと与えられた答えは、驚くほど軽い。
その場は「なるほど!」と思っても、右から左に抜けていきやすい。
自分で考え、苦労するプロセスを全部すっ飛ばしているのですから当然ですよね。

だから、こちらが貴重な時間を割いて説明しても、一週間後にはまた同じ質問をされたりする。
「ごめん、また聞いちゃうんだけど…」と。これをやられると、もう本当に心が折れるんです。
「この人に教えた時間は、完全に無駄だったんだな」って。
私の善意も、時間も、全部ドブに捨てられたようなそういう無力感と絶望感に襲われるのです。
その経験が、次の善意を躊躇させる壁になっていくのです。

それでもなお困難であるならば、対価を払いなさい

ここまで読んでも、「どうしても独学では理解できない」という人もいるでしょう。
ええ、わかります。人には向き不向きがありますから。
文字情報から学ぶのが苦手な人もいる。
それは、決して悪いことではありません。

だとしたら、選択肢は一つです。
身銭を切って、教室に通うか、メンターを雇うか、有償のサービスを使いましょう。

それが、一番確実で、お互いにとって幸福な解決策です。
お金を払うことで、あなたは教えてもらう権利を得て、相手は教える義務を負う。
そこには、変な甘えや感情的なすれ違いは生まれません。
プロと顧客としての、クリーンな関係が成立します。

「そんなお金はない」と言うかもしれません。
でも、専門的な知識や技術というのは、それだけの価値があるものなんです。
タダで手に入ると思う方が、どうかしてる。野球が上手くなりたければ野球スクールに、絵が上手くなりたければ絵画教室に、相応の対価を払うでしょう。
なぜ、ITの分野だけが、善意によって無償で提供されるべきだと考えられてしまうのか。
わたしには、それが不思議でなりません。

結論として

わたしは別に、意地悪がしたいわけじゃない。
ただ、貴重な人間関係を、こういう不均衡なものですり減らしたくない。
心から、そう思っているだけなのです。

専門的な知識は、友人という関係性に寄りかかるのではなく、適切な場所で、適切な対価を払って得るべきもの。
その方が、きっと、お互いにとってより良い関係を続けられるはずですから。

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