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確からしさという不確かさ

確からしさという不確かさ

投稿した日
2025/04/29
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最近よく思うことがあります。

特に、コンピュータサイエンスやインフラストラクチャといった技術的な話題の中で、とても軽やかに、断定的な物言いをする方々を見かける機会が増えたように感じます。まるで、その分野の全てを理解しているかのような、「有識者」としての振る舞い。

正直なところ、そうした態度に少しばかりの違和感というか、見ていて少ししんどさを覚えるのです。なぜなら、その自信に満ちた言葉が、必ずしも深い理解に基づいているとは限らないように思えるからです。

自分のの経験した経験や、限られた知識の中の限定的なスコープで、「これが絶対」「こうあるべき」と語られる姿。まるで、その狭い世界が全てであるかのように見える時、わたしはそこに危うさを感じてしまうのかもしれません。

知っていること

そもそも、知っているとは、一体どういう状態を指すのでしょうか。

例え、コンピュータサイエンスの基礎を学んでいても、一つのプログラミング言語やフレームワークの使い方を覚えたとしても、その裏にあるOSの挙動、ネットワークの複雑なやり取り、あるいはハードウェアの仕様まで、L1からL7まで全てのレイヤを把握しているとは到底言えません。

サーバー構築一つにしても、幾つかのコマンドを実行してサービスが立った、という表面的な事実の裏側には、無数の設定項目、セキュリティに関する考慮事項、パフォーマンスチューニングの可能性が広がっています。

常識

技術のトレンドは、驚くほど速いスピードで移り変わっていきます。

数年前には主流だった技術が、今はもうレガシーと呼ばれたり。KVMやQEMUといった仮想化技術からDocker、Kubernetesなどのコンテナへ、そしてサーバーレスへと、インフラの考え方自体が常に変化し続けています。クラウドサービスは毎月のように新しい機能が追加され、昨日までの短慮な知識が今日にはもう通用しない、なんてこともあるあるです。

それに、技術選定というものは、多くの場合、トレードオフの上に成り立っています。

「この状況ではこの技術が最適解に近いけれど、別の要件や規模であれば、全く違う選択肢が浮上する」ということは、ごく当たり前にあるはずです。

それなのにも関わらず、コンテキストを無視して「この技術以外はあり得ない」といった強い言葉が飛び交うのを目にします。その方の経験においては真実なのかもしれませんが、それが普遍的な正しさであるかのように語られると、やはり戸惑いを隠せないのです。

わたしの中の不確かさ

そうした現実を目の当たりにするたびに、「知っている」と軽々しく口にすることの難しさを痛感します。

知れば知るほど、「知らないこと」の広大さに気づかされ、自分の理解がいかに表層的であるかを思い知らされるのです。

わたし自身、自分の知識や考えに、なかなか自信を持てないでいます。

だからこそ、他者の揺るぎない断言に触れると、どこか取り残されるような、あるいは、自分だけが何か大切なことを見落としているのではないか、という不安に駆られてしまうのかもしれません。

「知らないかもしれない」という余地

もちろん、自分の意見や経験を発信すること自体は、悪いことではないと思います。

けれど、それが他者の見解を容易に否定したり、自身の知識を過信したりすることに繋がるのは、少し違うのではないかと、わたしは思うのです。

「もしかしたら、自分はまだ知らないのかもしれない」

「別の視点や、もっと良い方法があるのかもしれない」

そういう、ある種の謙虚さや、不確かさを受け入れる余地を持つこと。それこそが、この変化の激しい分野に向き合う上で、そして他者と関わる上で、とても大切な姿勢なのではないでしょうか。

「知る」ことの重み

世の中に気持ち悪いほど溢れかえる、確信に満ちた言葉の数々。

それらに触れるたびに、「知る」ということの本当の重みについて、そして、自分自身の理解の浅さについて、改めて考えさせられます。

結局のところ、わたしは他者の断言に戸惑いながらも、この不確かな感覚と向き合い続けていくしかないのかもしれません。そして、もしかしたら、その戸惑いや違和感こそが、何か本質的なことを見失わないために必要なブレーキなのかもしれない、とも思うのです。

最後に、これは皮肉ですが、よくもそんな自分に自信が持てますね。羨ましいです。