周縁を歩む
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ディスプレイの向こうの喧騒が、ふと、この部屋の静けさを際立たせる瞬間があります。
非情にもインスタを開いてしまうと流れてくるストーリーに、友人たちの楽しげな様子。それを目で追っているうちに、気づけば涙が滲んでいることがあるのです。
最近は、漠然とした孤独感からか、どうも感傷的になりやすいのかもしれません。
なぜ涙が流れるのか。それはおそらく、彼女たちの輪の中に、私の「確かな居場所」が見つけられないからなのでしょう。
集団の中に所属してはいても、常に中心から少しずれた場所にいるような感覚。
私がそこにいなくても、世界は何も変わらずに回っていくのだろう、という漠然とした疎外感。
この感覚は、実に不快なものです。
そして、この感覚は、今に始まったことではないように思われます。
記憶を遡れば、高校時代もそうだったのかもしれません。
クラスで自然発生的に形成された5人の集まりに、形式上、私も名を連ねてはいました。けれど、私はその中で所謂、金魚のフン的な存在。言い換えると、誰かに付随することでしか存在を保てない、そんな心許ない立ち位置にいたように感じます。
言葉を交わす相手が皆無だったわけではありません。休み時間や昼食時を共にする顔ぶれはありました。
しかし、それは表面的なやり取りに終始していたように思うのです。本当の意味で深い部分で通じ合ったり、互いを唯一無二の存在として認め合ったりするような関係性では、決してなかった。
だから、皆と同じように笑いながらも、心の奥底では、いつも言いようのない孤独を感じていました。
ただ、その孤独を言葉にして表すことは、なぜか憚られました。
「寂しい」と口にすることが、自らの弱さを露呈するようで、恐ろしかったのかもしれません。
必死に、懸命に平穏を装ってはいましたが、おそらく周囲には見透かされていたのでしょう。「あの子は、どこか輪に入りきれていない」と。
そうした視線を感じるたびに、自分がより一層惨めな存在に思えてなりませんでした。あるいは、同情の目で見られていたのかもしれない、という疑念は、コンプレックスを加速させ、さらに心を蝕むのです。
もちろん、高校時代の全てが灰色だったわけではありません。
友人と笑い合った記憶も、行事の賑わいの中に身を置いた瞬間も、確かに存在します。
元来、人と深く関わることを苦手とする私のような人種にしては、十分に青春のおこぼれを堪能させてもらえましたし、「あれはあれで、悪くない日々だった」と、そう結論付けて心の折り合いをつけている部分も否定できません。
それでも、今、静かに当時を振り返ると、やはり胸の奥に鈍い痛みが蘇るのです。
結局のところ、あの頃の私も、誰かにとってのいちばんではなかったなーと。
心から安らげる、居場所と呼べるような場所は、どこにも存在しなかったのだと、そう認めざるを得ません。
そして悲しいことに、現在も、状況は大きく変わらないように感じられるのです。
先日も、親しいと思っていた友人たちが、私の知らないところで盛り上がっていた話題がありました。後から「あぁ、〇〇(私)さんもいたんですね!ごめんなさいね!!」などと声をかけられて。そこに悪意が介在していない事は理解していても、その言葉は鋭く胸を刺すのです。あぁ、また繰り返している、と。私という存在の希薄さを、改めて突きつけられるようで。
羨望の念を禁じ得ません。誰かにとっての特別な存在になれる人たちが。
一体どうすれば、人は、誰かにとってのかけがえのない一人になれるというのでしょうか。
私もまた、多くの人が思うように、誰かのいちばんになりたいのです。
必要とされたい。ここに存在していいのだと、心の底から実感したい。思考は堂々巡りを繰り返し、ただ心が消耗していくのを感じます。
過去も現在も、同じ場所で足踏みをしているような感覚から逃れられません。
この深く垂れ込める霧のような気持ちが、晴れる日は来るのでしょうか。
ありのままを肯定してくれる言葉を、その温もりのある言葉を、今はただ待ち望んでいます。