サイトロゴ まいの雑記帳
周縁を歩む

周縁を歩む

投稿した日
2025/04/29
読了まで
2.76分で読み終われます (1,655文字)

周縁を歩む

目次はありません。

ディスプレイの向こうの喧騒が、ふと、この部屋の静けさを際立たせる瞬間があります。

非情にもインスタを開いてしまうと流れてくるストーリーに、友人たちの楽しげな様子。それを目で追っているうちに、気づけば涙が滲んでいることがあるのです。

最近は、漠然とした孤独感からか、どうも感傷的になりやすいのかもしれません。

なぜ涙が流れるのか。それはおそらく、彼女たちの輪の中に、私の「確かな居場所」が見つけられないからなのでしょう。

集団の中に所属してはいても、常に中心から少しずれた場所にいるような感覚。

私がそこにいなくても、世界は何も変わらずに回っていくのだろう、という漠然とした疎外感。

この感覚は、実に不快なものです。

そして、この感覚は、今に始まったことではないように思われます。

記憶を遡れば、高校時代もそうだったのかもしれません。

クラスで自然発生的に形成された5人の集まりに、形式上、私も名を連ねてはいました。けれど、私はその中で所謂、金魚のフン的な存在。言い換えると、誰かに付随することでしか存在を保てない、そんな心許ない立ち位置にいたように感じます。

言葉を交わす相手が皆無だったわけではありません。休み時間や昼食時を共にする顔ぶれはありました。

しかし、それは表面的なやり取りに終始していたように思うのです。本当の意味で深い部分で通じ合ったり、互いを唯一無二の存在として認め合ったりするような関係性では、決してなかった。

だから、皆と同じように笑いながらも、心の奥底では、いつも言いようのない孤独を感じていました。

ただ、その孤独を言葉にして表すことは、なぜか憚られました。

「寂しい」と口にすることが、自らの弱さを露呈するようで、恐ろしかったのかもしれません。

必死に、懸命に平穏を装ってはいましたが、おそらく周囲には見透かされていたのでしょう。「あの子は、どこか輪に入りきれていない」と。

そうした視線を感じるたびに、自分がより一層惨めな存在に思えてなりませんでした。あるいは、同情の目で見られていたのかもしれない、という疑念は、コンプレックスを加速させ、さらに心を蝕むのです。

もちろん、高校時代の全てが灰色だったわけではありません。

友人と笑い合った記憶も、行事の賑わいの中に身を置いた瞬間も、確かに存在します。

元来、人と深く関わることを苦手とする私のような人種にしては、十分に青春のおこぼれを堪能させてもらえましたし、「あれはあれで、悪くない日々だった」と、そう結論付けて心の折り合いをつけている部分も否定できません。

それでも、今、静かに当時を振り返ると、やはり胸の奥に鈍い痛みが蘇るのです。

結局のところ、あの頃の私も、誰かにとってのいちばんではなかったなーと。

心から安らげる、居場所と呼べるような場所は、どこにも存在しなかったのだと、そう認めざるを得ません。

そして悲しいことに、現在も、状況は大きく変わらないように感じられるのです。

先日も、親しいと思っていた友人たちが、私の知らないところで盛り上がっていた話題がありました。後から「あぁ、〇〇(私)さんもいたんですね!ごめんなさいね!!」などと声をかけられて。そこに悪意が介在していない事は理解していても、その言葉は鋭く胸を刺すのです。あぁ、また繰り返している、と。私という存在の希薄さを、改めて突きつけられるようで。

羨望の念を禁じ得ません。誰かにとっての特別な存在になれる人たちが。

一体どうすれば、人は、誰かにとってのかけがえのない一人になれるというのでしょうか。

私もまた、多くの人が思うように、誰かのいちばんになりたいのです。

必要とされたい。ここに存在していいのだと、心の底から実感したい。思考は堂々巡りを繰り返し、ただ心が消耗していくのを感じます。

過去も現在も、同じ場所で足踏みをしているような感覚から逃れられません。

この深く垂れ込める霧のような気持ちが、晴れる日は来るのでしょうか。

ありのままを肯定してくれる言葉を、その温もりのある言葉を、今はただ待ち望んでいます。