サイトロゴ まいの雑記帳
ちょっと変だけどいい人だよね

ちょっと変だけどいい人だよね

投稿した日
2025/05/13
読了まで
2.88分で読み終われます (1,730文字)

ちょっと変だけどいい人だよね

目次はありません。

私たちの他者に対する印象というものは、実に流動的で、時として予測不可能な変容を遂げるものです。
特に、周囲とは少し違うような、ある種の特異性を持つ人物に対する評価は、関係を持ってからの時間経過や関係性の深化に伴い、顕著なグラデーションを描くことがあるように思われます。

初期の段階において、私たちはそのような人に対して、例えば「ちょっと変だけどいい人だな~」といった、ある種の猶予を含む評価を抱くことがあります。
ここでの変という要素は、必ずしも否定的な意味合いを持つとは限りません。
むしろ、画一的な集団の中では見られないユニークな個性、あるいは既成概念に囚われない斬新な思考の片鱗として認識され、それが結果的にいい人という肯定的な側面と結びつくことで、一種の興味や関心の対象となることすらあるでしょう。
私自身、単なる逆張りなのかもしれませんが、他の人とは異なる視点や感性を持つ人に対して、ある種の知的な魅力を感じることがあり、その特異性を積極的に理解しようと試みる傾向があるように思います。
この段階では、多少の行動様式の違いや、一般的な規範からの逸脱も、その人物を構成する個性の一部として許容され、むしろそれが関係構築のきっかけとして機能することさえ考えられます。

しかし、交流が深まるにつれて、あるいは単に観察期間が長くなるにつれて、次の段階への移行が始まることがあります。
それは、「変だなこの人」というより明確な違和感や疑問が意識の表層に浮かび上がってくる段階です。
以前は個性として許容できていた、魅力とさえ感じていたかもしれない特異な言動が、徐々にその許容範囲を超え理解や共感の難しい異質さとして認識され始めるのです。
この変化は、多くの場合、単一の決定的な出来事によって引き起こされるというよりも、些細な違和感の蓄積、期待値と現実の乖離、あるいはコミュニケーションにおける継続的な齟齬などが、徐々に、しかし確実に積み重なった結果として現れるように観察されます。
特定の価値観や論理構造が、自分自身のそれとは根本的に相容れないのではないか、という疑念が生じ始めると、それまで中立的、好意的に解釈しようとしていた思考のベクトルが、徐々に批判的な方向へと転換していくのです。
この過程では、相手の言動の真意を測りかねたり、コミュニケーションの前提が共有できていないと感じたりする場面が増え、精神的な疲労を感じ始めることも少なくありません。

そして最終的に、この違和感と疲労感が一定の閾値を超えたとき、「うわーこの人変すぎ!無理無理!!」という結論に至ることになります。
この段階では、もはやその人の特異性を個性として積極的に評価しようという意志は薄れ、むしろその変であることが、明確な忌避感情、あるいは自己防衛的な距離を形成する要因へと転化しています。
勝手に好かれた挙句に勝手に嫌われるなんて相手からしたらたまったもんじゃないですよね。私もそう思います。
これは、感情的な反発というよりも、これ以上関わることで自分自身の精神的な安定や価値観が不必要に揺さぶられることを避けようとする、ある種の合理的な判断なのかもしれません。
残酷なことに、このようなネガティブな感情やストレス源から意識的に距離を置くことは、自己の精神衛生を保つ上で不可欠な対処法ともなり得るのです。

このような印象の変化は、果たして対象となる人物の一方的な変化や問題点のみに起因するのでしょうか。
私は、そうとは限らないと考えます。
観察する側の私たち自身の精神状態、価値観、あるいはその時々の心理的リソースの多寡といった内的要因もまた、他者に対する認知や評価に大きな影響を与えることは疑いようがありません。
例えば、心に余裕がある時期には許容できたかもしれない言動が、精神的に不安定な時期には耐え難いストレスと感じられることは、誰にでも経験があるのではないでしょうか。
あるいは、自分自身の成長や経験によって価値観が変化し、以前は許容できた、あるいは共感できたはずの考え方に対して、疑問や違和感を抱くようになるということも十分に考えられます。

もしかしたら、単に隣の芝生は青く見えるだけのことに過ぎないのかもしれません。

ブログの更新をお知らせ

RSSで購読すると新しい記事の投稿を知ることができます。