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私たちは葦でいられるのか

私たちは葦でいられるのか

投稿した日
2025/05/14
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人間は考える葦である

「人間は考える葦である」

この言葉を遺したのは、17世紀フランスの哲学者であり、科学者、数学者でもあったブレーズ・パスカルです。彼の死後に出版された遺稿集「パンセ」の中に記されている、あまりにも有名な一節です。
人間は自然界において一本の葦のようにか弱く、ほんの些細な出来事で容易くその存在を脅かされてしまう。
けれども、その人間が他の生物と一線を画し、宇宙全体よりも偉大であるとさえ言えるのは、わたしたちが思考するという、ただそれだけの能力を持つからなのだと、パスカルは説いたものです。
思考こそが人間の尊厳であり、どれほど悲惨な状況下にあっても、人間を人間たらしめる根源的な力なのだ、と。

しかしながら、この言葉が世に示されてから数百年が経過した現代。
わたしたちは、パスカルが人間の最大の強みとしたこの考える力を、果たしてどれほどに育み、そして活用できているのでしょうか。
むしろ、日々の生活の中で、意識的あるいは無意識的に、この貴重な能力を放棄してはいないかと、強い疑念を抱かざるを得ない場面に、あまりにも頻繁に遭遇するのです。

蔓延する思考停止

一般に「思考停止」と言われているこの現象は、職場や学校といった組織の内外、リアルの交友関係、そしてSNSなど、社会のありとあらゆる場面で、まるで空気のように、しかし確実に存在しているように感じられます。

例えば、公式のドキュメントや過去のやり取りを少し参照すれば容易に解決できるはずの疑問を、一切自分で調べる努力をせずに他者に問うてくる方がいます。
質問という行為そのものを否定するつもりは毛頭ありません。
けれど、その問いが、自ら考えるというプロセスを完全に放棄した結果である場合、それは周囲の時間を一方的に収奪し、ある種の精神的な負荷を強いることになるのではないでしょうか。
以前にも同様の質問をして回答を得ているにも関わらず、その内容を記録も記憶もしておらず、再び同じ問いを繰り返すという行為は、相手に対する敬意の欠如であり、自身の責務に対する意識の希薄さの表れと、わたしには思えてしまうのです。

リアルの交友関係においても、同様の傾向は見受けられます。
旅行の計画を立てる際、交通手段や宿泊施設の情報を一切自分で調べようとせず、他者にその判断を委ねてしまう。
あるいは、ある事象について自分なりの意見を形成する努力を怠り、常に他者の判断や評価に依存してしまう。

そして、現代において特にその徴候が顕著に表れていると感じるのが、SNSをはじめとした広義でのインターネットです。
そこでは、情報の真偽を確かめるという基本的なステップが踏まれないまま、感情を刺激するような言葉や、一部だけを切り取られた情報が瞬く間に拡散されていく。
現代のレコメンドアルゴリズムは皮肉にも本当によくできていて、知らず知らずのうちにわたしたちを心地よいフィルターバブルの中に閉じ込め、異なる視点から物事を考える機会を奪い、思考の偏りを助長しているいるように思えます。

このような考えない行動の積み重ねは、個人の成長の機会を奪うだけでなく、多くの人を不快にしていることをもっと理解する必要があるでしょう。

考えない人々

「もう少しだけ、ご自身でドキュメントを読んでいただけますか…」

「そのソースは本当に信頼に足るものでしょうか…」

表面上は穏やかに、時には相手の自尊心を傷つけぬよう細心の注意を払いながら対応する。
これは、日常的にわたしが経験している、決して小さくない、しかし言葉にするのが難しい種類のストレスです。

相手に悪意がないことが理解できることもあります。
単に時間的な余裕がない、あるいは情報を探すの術すら持てない残念な人なのかもしれません。
しかし、そのような状況が常態化し、自ら考える努力を放棄しているとしか思えない相手に対して、根気強く説明を繰り返すことは、精神的なエネルギーを著しく消耗させます。
それは、まるで底の抜けた器に水を注ぎ続けるような、ある種の徒労感であり、教える側の善意や時間を一方的に搾取されているかのような、やり場のない不公平感を伴うのです。

このような経験が積み重ると、徐々に他者に対する信頼感が薄れ、ある種の諦めにも似た感情が、心の奥底に澱のように溜まっていくのを痛感します。
「この人に何を伝えても無意味なのかもしれない」、「これ以上関わるのは精神衛生上よくないのかも」と、コミュニケーションそのものを回避しようとするようになるのです。
これは、ある意味で自己防衛的なものが介在しているのかもしれませんが、同時に、人と人との間に見えない壁を築き上げ、孤立を深める要因にもなり得るのではないかと、そんなことを考えてしまいます。

わたし自身、感受性がやや強いというか、他者の感情の機微や言葉にあるものに過敏に反応してしまうこともあってか、他者の無神経な言動や思考の浅薄さに、人一倍心を揺さぶられてしまうことがあります。
相手にとっては些細なことでも、こちらにとっては深く突き刺さる言葉や態度があり、それが引き金となって落ち込んだり、あるいは逆に過剰な怒りを感じたりすることも少なくありません。
彼ら彼女らが考えないことで無自覚に放つ刃は、静かに、しかし確実に傷つけるものなのです。

考える

もちろん、わたし自身が常に完璧な思考ができているわけでは決してありません。
むしろ、自身の思考の偏りや浅はかさに気づき、愕然とすることも日常茶飯事です。

感情に流されて判断を誤ったり、先入観に囚われて物事の本質を見誤ったり、あるいは単に知識不足から的外れな結論に至ってしまったり。
重要な議論の場で不用意な発言をして後で猛省することもあれば、友人との会話で言葉の選択を誤り、自己嫌悪に陥ることもあります。
この文章自体も、後から読み返して顔を覆いたくなるのかもしれません。

だからこそ、そうした自身の不完全さを痛いほど自覚しているからこそ、一つの情報や視点だけで物事を断定してしまうことの危険性を、人よりも少しだけ強く意識するようになったように思います。
ある出来事に対して、最初に抱いた感情や直感的な理解を絶対視せず、自問自答する習慣を、意識的に持つようにしています。
関連する書籍を渉猟したり、信頼できると考えられる情報源を探したり、異なる意見を持つ人の言葉に意識的に耳を傾けたりすることで、できる限り多角的に物事を捉えようと努めているつもりです。

しかしながら、現代は情報が爆発的に増加しており、玉石混淆の情報の中から本当に価値のあるものを見つけ出すのは、ある種の困難を伴います。
また、多様な意見に触れる中で、自身の価値観が揺らいだり、何が正しいのか判然としなくなるという、ある種の不安に苛まれたりすることもあります。
思考が袋小路に入り込み、答えが見つからないまま時間だけが過ぎていく焦燥感に駆られることも、決して少なくありません。

それでもなお、考えることを放棄したくない、と強く思うのは、それが人間としての尊厳を保つための最後の砦であるという、漠然とした感覚があるからなのかもしれません。
そして、自分なりに納得のいく結論や理解に到達した時の、あの静かで深い知的興奮や達成感が、何物にも代えがたい喜びであることを、わたしは知っているからです。
それは、複雑な数式が解けたものに似た、鮮烈で強烈な感覚なのです。

現代社会は考えないことを許容するのか

パスカルの時代から数百年、科学技術は飛躍的な進歩を遂げ、わたしたちの生活は比較にならないほど便利になってしまいました。
しかし、その一方で、「人類にとって、そもそも考えるということは、本質的に困難なタスクなのではないか」と、そう思わずにはいられないのです。
現代社会は、皮肉なことに、考えなくても生きていける環境を、あまりにも高度に最適化されています。

情報過多の現代において、わたしたちの認知能力は常に大量の情報に晒されています。
そのすべてを吟味し、処理するには、認知的な負荷が大きすぎるのかもしれません。
結果として、深く思考することを避け、表層的な情報処理で済ませようとする傾向が強まっている、という見方もできるでしょう。
また、短期的な成果や効率性が過度に重視される現代の風潮も、じっくり考えることを、どこか時代遅れなものとして扱っているように感じられてなりません。
時間をかけて熟考するよりも、素早く答えを出すことが求められる社会では、残念ながら思考の深さよりも反応の速さが優先されてしまいがちです。

現代では、検索エンジンを使うことで様々な疑問に対する答えのようなものが瞬時に手に入ります。
あらゆるレコメンドアルゴリズムはわたしたちの好みを分析し、次に見るべき動画や読むべき記事を提案してくれます。
これらの技術は疑いもなく便利である一方で、わたしたちが自ら情報を探し、吟味し、判断するという能動的な思考プロセスを、無意識のうちに省略させてしまう危険性を孕んでいるのかもしれません。
あたかも、常に誰かが舗装してくれた道を歩いているかのようなものであり、自ら道を切り開くための思考の筋力が、徐々に衰えていくのではないか、という懸念です。

残念なことに、どれだけ無知で馬鹿で愚かな人であっても、社会の底辺を這いつくばりながらも生き残ることができてしまうのが現代社会です。
もちろん、これは社会的なセーフティネットの重要性を否定するものではありません。
しかし、社会が高度にシステム化され、ある程度の生活が保障される中で、個々人が主体的に考えるインセンティブが、徐々に失われつつあるのではないか、とも思います。
思考する機会が、経済的な格差によって不均等に配分され、ある層の人々にとっては考えること自体が、ある種の贅沢品となっているという現実も、無視することはできません。
消費社会とエンターテイメント産業が提供する、手軽で安価な刺激は、深い思考から目を逸らさせ、受動的な満足感に人々を浸らせることで、結果的に思考停止を助長している側面もあるのではないか、とわたしは考えています。

再び考える葦であるために

わたしたちは、パスカルが言うところの「考える葦」として、ささやかな尊厳を保ち続けることができるのでしょうか。
それとも、情報の大洪水に翻弄され、ただ風に流されるだけの、思考を放棄した葦になり果ててしまうのでしょうか。

考えることとは、単に知識を蓄積することではない、とわたしは思います。
それは、主体的に問いを立て、情報を批判的に吟味し、多様な視点から物事を考察し、そして自分なりの論理と倫理に基づいて判断を下すという、一連の能動的な、そして内省的なプロセスです。
これこそが、わたしたちを機械的な存在ではなく、真に人間的な存在たらしめるものだと、そう信じたいのです。

安易に答えを求める前に、一度立ち止まって自分で調べてみる。
情報に反射的な反応するのではなく、その情報源や信憑性について、少しだけ考えを巡らせてみる。
そして、自分自身の思考の癖や、無意識のバイアスに気づき、それを相対化しようと努めること。

思考停止の蔓延は、静かに、しかし確実にわたしたちの社会を蝕んでいるように感じられます。
パスカルの言葉を、時折心の片隅で反芻しながら、わたし自身「考える葦」として、主体的に生き抜いていきたいと、切に願っています。

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