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MBTIとか

MBTIとか

投稿した日
2025/05/04
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MBTIとか

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いつからでしょうか。
こんなにもMBTIが私たちの日常に浸透したのは。
自己紹介から、初めて会う人とのぎこちない会話の糸口まで、「ちなみに、MBTIは何タイプ?」なんていう質問が、まるで血液型を聞くのと同じくらいの気軽さで交わされるようになりました。

わたしも何度か、この流行に乗って何度か診断を試してみました。INTP-Tでした。
表示されたタイプの説明を読み、「まさに自分のことだ」「そうそう、こういうところがある」と、思わず膝を打つような共感をおぼえる部分も少なくありませんでした。
自分の性格や考え方の傾向が言語化されることで、漠然としていた自己像が少し明確になったような感覚さえありました。

けれど最近、このMBTIというツールが、私たちの間で少しばかり過剰に持て囃されているような気がして、胸の奥がざわつくことがあります。
「人間、MBTIの結果に影響されすぎじゃない???」そんな、素朴な疑問が、頭の片隅でいつも引っかかっているのです。

例えば、恋愛の話。
「あの人、〇〇だから、私とは、きっと相性良いはず!」とか、「え~、あの人と私はMBTIが全然違うから、分かり合えない…」なんていう会話を耳にするたびに、なんだか引っかかるものを感じるんです。
MBTIのタイプが、まるでその人の能力や可能性を測る唯一の指標のように扱われているのを見ると、少しばかり息苦しくなります。
親しい友人との間では、「やっぱり○○はINTPだもんね、納得!」「そういう突飛な発想、めっちゃそれっぽいよね!」なんていうやり取りが、もはや挨拶代わりのようになっていることさえあります。

もちろん、共通の話題があることは、コミュニケーションのきっかけになるでしょうし、MBTIという共通の枠組みを持つことで、相手の思考回路や行動原理を、ある程度推測できるような気になるのも、理解できます。
自分と似たタイプの人を見つけて、なんとなく安心感を覚えたり、全く違うタイプの人との価値観の違いを面白がったりするのは、人間関係を円滑にするための、一つの手段なのかもしれません。

ただ、立ち止まって、漠然と考えてしまうのです。
MBTIは、あくまでも、複雑で多面的な人間の性格を、便宜的に16個のパターンに分類した、一つの試みに過ぎない、ということを。
診断結果は、その人の持つ無限の可能性や、時として矛盾する感情、そして何よりも、状況によって変化しうる行動の全てを、捉えきることなんてできないはずなんです。
それは、あくまで統計的な傾向を示すものであって、その人そのものを規定する、絶対的な真実ではないのではないでしょうか。

それなのに、「ISFJだから、もっと人に尽くすべきだ」「ENTJだから、リーダーシップを発揮して周りを引っ張るべきだ」といった、紋切り型のイメージに、私たち自身や、私たちが大切に思う人々を、無意識のうちに当てはめてしまってはいないでしょうか。
それは、その人が本来持っているかもしれない、この世界に溢れるはずの多様性を、単一的なものへと矮小化してしまう危険性を孕んでいるように思うのです。

わたし自身、占いや性格診断といった類いのものは、嫌いではないですし、寧ろエンターテイメントとして楽しんでいる側面があります。
自分のまだ知らない一面を指摘されたような気がして、少し興味深かったり、友達との間で「わかる~!」と共感し合ったりするのは、それなりに面白いと感じます。
でも、それらの結果を絶対的な真実として信じ込み、自分の行動や、他人に対する評価の基準を、安易にそれに委ねてしまうのは、どこか思考停止しているようで、少し警戒してしまうのです。

特に、私たちがよく話題にする広義でのMBTI診断(概ね16Personalities)については、専門家から学術的な根拠や妥当性について疑問が呈されていることも事実です。
しかし、興味深いのは、それでもなお多くの人がこの診断結果に当たると感じ、共感を寄せている点です。
これは推測ですが、多くの人が診断を受ける際、無意識のうちに「こうありたい自分」「自分が認識している自己像」といったバイアスを込めて回答しているのではないでしょうか。
その結果、学術的な厳密性はさておき、似たような自己認識や価値観を持つ人々が同じタイプに分類され、結果としてそのグループにはある程度の共通した傾向が見られる、ということは十分に考えられます。

そう考えると、診断の結果は、私たちがまだよく知らない誰かと、最初のほんの少しだけ関わる際の、最初の取っ掛かりとしては、案外役に立つのかもしれません。
初対面の人に対して、「もしかしたら、この人はこういうコミュニケーションスタイルを好むかもしれないな」「こういう価値観を大切にする傾向があるのかもしれないな」といった、最初の仮説を立てるための、一つの道具として利用する、といった具合です。
それは、相手を理解するための、あくまでも補助線であって、決してその人を特定の枠の中に閉じ込めてしまうための、頑丈な檻ではないはずです。

私たちが本当に大切にすべきなのは、MBTIのタイプを絶対的な真理として捉えるのではなく、自分自身や、大切な他者をより深く理解するための、一つのきっかけやヒントとして、もっと柔軟に活用していくことなのではないでしょうか。
診断結果が示すのは、私たち一人ひとりが持つ、複雑で多岐にわたる個性の中の、ほんの一つの側面に過ぎません。
私たちは、MBTIという一枚のラベルを通してではなく、常に目の前にいる、生身の人間そのものと、心を開いて向き合い、言葉を交わしていく必要があるのだと思います。

MBTIは、使い方によっては、自己理解の扉を開き、他者への想像力を広げる、興味深いツールになり得ます。
しかし、その結果に一喜一憂したり、人を安易にタイプで決めつけたりするのではなく、エンターテイメントとしての適度な距離感を保ちながら、この世界に存在する無数の個性と、より豊かで、より深い繋がりを築いていくための、ささやかな道標として捉えるのが、私たちにとって、より健全な向き合い方なのかもしれません。

そして、ここで改めて強調しておきたいのは、私がここまで述べてきたMBTIという言葉は、巷でよく知られている16Personalities診断と同義の意味合いで使っているということです。
厳密な心理学の学術的な分類とは異なる、よりカジュアルで、エンターテイメントとしての側面が強い、あの16タイプ診断のことですね。

なぜ、わざわざそう但し書きをするかというと、本来のMBTI(マイヤーズ=ブリッグス・タイプ指標)は、もっと専門的な知識を必要とするものであり、質問項目や解釈も、私たちが気軽に触れているものとは異なる場合があるからです。
ですから、ここで出てきたMBTIという言葉は、ざっくりと捉えていただければ幸いです。

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