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楽しかったあの頃のインターネットはもうなくなってしまった

楽しかったあの頃のインターネットはもうなくなってしまった

投稿した日
2025/05/17
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楽しかったあの頃のインターネットはもうなくなってしまった

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最近のインターネットの様相は、以前とはかなり異なっているように感じます。

わたしが広義の意味でのインターネットの面白さにのめり込み始めた頃は、確かに大手SNSには情報が溢れていましたが、それでも検索の方法を少し工夫したり、リンクを丹念に辿ったりすると、個人が熱意を込めて運営しているブログや、独特な世界観を持つウェブサイトに不意に出会えることがありました。
そういった自分だけの発見は、まるで宝探しをしているようで、非常に心が躍ったことを記憶しています。
あの頃は、もっと雑多な情報が混在していて、良くも悪くも個人の個性が反映されやすい、ある意味ではカオスながらも自由な空間だったように思います。
個人が手探りで発信する情報には、たとえ洗練されていなくても、その人なりの熱量やユニークな視点が確かに詰まっていました。
それが面白く、夜ごと見知らぬ誰かの日記や考察を読みふけっては、静かに思考を巡らせたものです。

現代のインターネットは、インターフェースも洗練され、情報は効率的に整理されているように見えます。
しかしその一方で、どこか均質的で、誰が発信しても同じように見えるコンテンツが増えたのではないか、という印象は拭えません。

「インターネットがつまらなくなった」などと口にすれば、即座に「あんた感受性が鈍くなっただけ」だとか、「過去を美化しすぎているだけ」といった言葉が返ってくることは想像に難くありません。
確かに、わたし自身も歳を重ねる中で、物事の捉え方や興味の対象が変化した部分は否定しません。
かつて心を動かされた事象に対して、以前ほどの純粋な感動を覚えにくくなったかもしれませんし、知識や経験が増えたことで、ある程度のことでは動じなくなったのも事実でしょう。
しかし、それだけがこの違和感の理由だとは考えにくいのです。
人間の根源的な好奇心や、面白いもの、未知なるものに惹かれる心性は、そう簡単に変わるものではないと、私は思いますから。

では、何が変わったのでしょうか。
突き詰めて考えると、情報の質そのものと、それに対する私たちの接し方が、根本的に変容してしまったのではないか、という考えに至ります。
現代のインターネット空間を覆うこの特有の雰囲気は、わたしたち自身が「タイパ」などという言葉に象徴されるような効率性や、手軽に得られる瞬間的な刺激を過剰に追い求めるようになった結果、その一端が現れているのではないか、と考えています。
情報が氾濫し、時間に追われる現代社会において、限りある資源を有効に活用したいという気持ちは理解できます。
処理すべきタスク、参照すべき情報、求める娯楽は無限に存在するかのように感じられ、故に無駄な時間は極力排除したいと願うのは、ある意味で合理的な判断かもしれません。

しかし、それだけが全ての要因ではないという感覚もまたあります。
もっと直接的で、構造的な息苦しさ、とでも言うべきでしょうか。
例えば、いつの間にか当然のようになったプロバイダによるDNSブロッキング🔗、あるいは、ビックテックが自社の都合🔗や、時に独善的とも思える価値観に基づいて情報をフィルタリングし🔗異論や少数意見を過剰なまでに排除統制🔗しようとする動き。
そういったものを見るたび、社会的な善悪がどうであれ、強い不快感を覚えます。
何が正しくて何が不適切なのか、その判断基準すら曖昧なまま、私たちの表現の自由や知る権利が少しずつ、しかし確実に狭められていく。
かつての、良くも悪くも自由な気風が、徐々に見えない壁に囲まれ、息苦しさを増していくような閉塞感を強く感じます。
それは、気づかないうちに精神的な自由を奪われていくような感覚です。

そして、もう一つ、わたしたちが日常的に情報を得るための主要な窓口であるはずの検索エンジン。
あれもまた、現在のこの息苦しさや、情報の画一的な風景を助長している大きな要因の一つではないかと思います。
かつては、キーワードを打ち込むと、思いもよらない個人の手によるウェブサイトや、非常にニッチではあるけれど、そこには製作者の情熱が凝縮されたような情報に、偶然巡り合うことがありました。
それは予期せぬ発見に満ちた、知的な探検のような体験でした。

しかし、現在の検索結果の上位を占めるのは、お金で殴って作られた過剰にSEO対策が施された表層的な記事や、企業の宣伝意図が透けて見えるページばかり。
本当に深い洞察を求める声や、大量生産される情報とは異なるユニークな視点を持つ個人の言葉は、そうした最適化された情報の喧騒の陰に埋もれてしまい、なかなか私たちの目に触れることが難しくなってしまいました。
これは、検索エンジンというシステム自体が、巨大な広告プラットフォームとしての性格を強め、いかにして収益を確保するか、いかにしてより多くのユーザーに当たり障りのない情報を提供し、その滞在時間を最大化するか、という方向に過度に最適化されてしまったことの、ある意味で必然的な結果なのかもしれません。
その影響か、かつて私たちが享受していたはずの、広大な情報の海を自らの意志で探検するあの胸躍るような感覚は、残念ながら著しく色褪せてしまったように感じられるのです。

そして、そういった外部環境の変化に呼応するように、わたしたちユーザー側の効率最優先という価値観が過度に進むと、どのような状況が生まれるのでしょうか。
画面に溢れるのは、「3分でわかる〇〇」「要点まとめ」「これさえ読めば大丈夫」といった類の、とにかく短時間で結論だけを手渡すことを目的としたコンテンツばかり。
それは、あたかも対象をじっくりと味わい、その複雑な背景やプロセスを理解し、楽しむという行為そのものが、もはや推奨されないかのような雰囲気すら漂わせています。

そして、もう一つの顕著な傾向は、瞬間的な感情の起伏を誘うことに特化した、刺激的なコンテンツへの傾倒です。
驚き、怒り、共感、笑い。
そういった強い感情を短時間で引き出し、消費者の注意を刹那的に惹きつけ、そしてすぐに次の刺激へと移行させていく。
それはまるで、栄養価や味わいを度外視し、ただただ舌先の快楽のみを追い求める、感情のファストフードのようにも見えます。

結果として、ある事象について深く思考したり、複雑な物事をその複雑性のままに捉え、理解しようと努めたりする機会が、以前と比較して格段に減ってしまったように感じています。
あらゆるものが分かりやすさの名のもとに単純化され、即座に白黒つけられるような情報ばかりが持て囃される。
それは確かに、時間的制約の中で情報を処理するには便利な側面もあるのでしょう。
しかし、その代償として、私たちは常に表層的な情報ばかりを追いかけ、思考の深みへと分け入ることを放棄してしまっているのではないか、という懸念が拭えません。

手間を惜しまず何かを徹底的に調べ上げたり、多様な情報を自らの思考の中で組み合わせ、独自の解釈を編み上げたりするよりも、誰かが要約し整理してくれた「正解」とされる情報に、いかに迅速かつ容易にアクセスできるかという点が重視されるようになったのかもしれません。
その結果、一見すると難解で取っつきにくいけれど、ユニークな視点や深い洞察が秘められているような情報は、検索アルゴリズムの深淵に埋もれてしまったり、そもそもそのような情報を発信しようという動機自体が損なわれたりするのかもしれません。
丹精込めて紡ぎ出した言葉や、時間と労力をかけて編み上げた複雑な思考の結晶が、誰の目にも触れず評価もされないとしたら、それはあまりにも虚しいことです。
それならば、もっと手軽に、より多くの人々の共感を呼び、刹那的な注目を集められるようなものを、と考えるのは、ある意味で自然な心理であり、抗いがたい誘惑なのかもしれません。

このような状況は、私たちの思考様式そのものにも、静かに、しかし確実に影響を及ぼしているように感じられます。
何事に対しても即座に答えを求めるようになり、不確実な状態や曖昧な状況に対する精神的な耐久力が低下しているのではないでしょうか。
複雑な問題を単純な二項対立の枠組みに押し込めて理解しようとしたり、多様な意見が存在する中で、最大公約数的で無難な、しかし深みのない意見だけが流通し、それ以外の異質な声が圧殺されたりする。
それは、ある側面から見れば思考の効率化と呼べるのかもしれませんが、同時に、私たちの思考の幅や奥行きを限定してしまっていることにも繋がりかねません。

かつて楽しかったインターネットは、今やもう全くの別物に成り果ててしまったようです。

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