インターネットを右往左往していると、時折、どうしようもなく胸糞が悪くなる文章に行き当たることがあります。
最近、ある中小規模のコミュニティ管理者が書いた反省文と称する記事を読みました。
読んだ瞬間に覚えたのは、猛烈な不快感でした。そこには、自身の加害性を未熟さや善意でラッピングし、最終的に「そんな自分も苦しかった」という自己憐憫に落とし込む、あまりにも未熟な精神性が露呈していたからです。
# 救済の暴力性
その記事には、メンタルヘルスに悩むユーザーを助けてあげたい(笑)という一心で、あろうことか管理者の立場で知り得た情報を使い、本人の同意なく現実の警察や救急に通報しようとしたり、秘密であるはずの相談内容を第三者に漏らしたりといった、常軌を逸した行動が告白されていました。
「心配だったから」
そんな理由があれば、画面の向こうの他人のプライバシを暴き、土足で現実に踏み込むことが許されるとでも思っているのでしょうか。
はっきり言って、「自分が相手を変えてあげなきゃ」, 「自分が救ってあげよう」というのは傲慢でしかありません。その思考の根底にあるのは、相手へのリスペクトではなく、自分は正しく導く側の人間であり、相手を導かれるべき哀れな対象と見下すマウンティングでしょう。そもそも、画面越しでしか関わりのないような関係値の人間相手に何をしてあげられると思い上がっているんでしょうか。
結局のところ、相手のことはどうでもよくて、自分の理想の実現のため、自分はこんなにもいい人なんだと悦に浸るために他人を利用しているだけ。
「みんなを幸せにしてあげたい」「救ってあげたい」
言葉だけ聞くと耳障りはいいものの、それはどこまで行っても個人の欲望でしかなく、何も相手のためではない、単に自分がやりたいだけのエゴであると思います。
そもそも、相手を変えることを期待した時点で、その関係性は破綻しているも同然だと私は思いますけどね。
# 美徳シミュラークル
誰しも自分をよく見せたいと思うでしょうし、周りから良い人だと思われたいという願望が多少なりともあるかと思います。特に、SNSで発信する時なんかは、実際の自分より良い人に見えるようにするかもしれません。多くの人は、その方が自分にとってもメリットがあるとでも思っていることでしょう。
実のところ、多くの場合は真逆で、等身大の自分より少し悪く見えるようにしていおいた方が結局は自分のためになったります。
良くも悪くも、画面越しの他人はSNS上でのあなたが本当だと思っています。「優しくて、思慮深くて、誰かを救おうとする立派な人」。そう思っている人たちと長い時間を共にした時、善人として作り上げた自分を超えることは困難です。期待値を下回った場合、実際はそんなに悪くなくても他人はあなたを低く評価することになります。減点方式の地獄です。
逆に、実際はそこまで良くなくとも期待値を上回れば勝手に高い評価をしてくれます。
他人と接しない、もしくは他人を欺ける圧倒的な演技力がある人は例外として、都合よくインターネットでだけ善人ぶるのはやめておいた方がいい。本当に。
いつか自分の首を絞めることになる。今回の件のように
# 立派な人
誤解を恐れずに言えば、私は立派な人になんてなりたくないし、なるつもりも毛頭ありません。
私はいい人でもなければ、善人でもなく、理知的でもなければ思慮深くもない。安全圏から他人を眺め、浅い人間性で他人のことを馬鹿にして悦に浸っている、ただの気持ちの悪いオタクです。それが私の本性であり、変えようのない事実です。
元より、誰かを救う高潔な存在になんてなれるはずもないんです。
でも、だからこそ、私は自分自身が我儘で勝手でズルくて汚くて、どうしようもなく傲慢であることに、誰よりも自覚的でありたいと思っています。
一番恐ろしいのは、自分の内側にあるその醜悪さを直視せず、私は正しい、私は優しいと信じ込んだまま、身勝手な善意を振り翳すことです。
他人の人生を背負えるほど、私は立派な人間じゃない。だからこそ、他人をどうこうしようだなんて思わないし、自分の及ばせられる影響に過度な期待もしない。
自分も同列の底辺であると認めること。そこから降りて、初めてまともな人間になるためのスタートラインに立てるのだと思います。耳障りのいい綺麗な言葉で自分を飾って、後になって「こんなはずじゃなかったと」被害者ぶるのは、もうたくさんです。
自分の愚かさも、薄汚い欲望も、性格の悪さも隠さずに生きていく。誰かの救世主を気取ることなく、正直で、薄情で、自分の加害性には自覚的な俗物でありたい。
私は、ただの俗物的なインターネット人間として、この淀んだ掃き溜めで快適に過ごしていきたいと思っています。

