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誠実な本音

誠実な本音

投稿した日
2025/06/27
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誠実な本音

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「本音で話したら関係がこじれてしまった」「正直に伝えたら、相手を傷つけてしまった」。

こうした経験に、心当たりがある方も少なくないのではないでしょうか。
わたし自身、誠実であること、正直であることの価値を疑うつもりは毛頭ありません。
しかし、いざそれを実践しようとしたとき、かえって人間関係に修復しがたい亀裂が入ってしまう。
この逆説的な事態は、実に悩ましいものだと感ぜずにはいられません。

近頃、どうしようもなく心に引っかかり続けているのは、私たちが本音という言葉で語るものの中身についてです。
もしかしたら、その言葉でひとくくりにしているものの中には、本来、本音とは少し違う、もっと別の名前で呼ばれるべきものが含まれているのではないか、と。
そんな考えが頭をもたげるのです。

例えば、それは処理しきれずにいる欲望であったり、心の奥底にこびりついた劣等感であったりします。
あるいは、自分でも持て余している攻撃性や、無意識のうちに相手を思い通りにしたいと願う支配欲。
自分の非を認めたくないという自己正当化の気持ちや、ぐちゃぐちゃになった感情をただ誰かに受け止めてほしいという、一方的な甘えのようなものかもしれません。

これらは誰の心の中にも、大なり小なり渦巻いている感情なのでしょう。
しかし、それを無加工のまま、社会性フィルタもかけずに「これがわたしの本音です」と相手にぶつけてしまう行為は、果たして誠実さや素直さと呼べるのでしょうか。
私には、それが良好だったはずの関係性を破壊しかねない、危ういトリガーに過ぎないように思えてならないのです。

特に、自分をわかってほしいという気持ちは誰もが持つ自然な感情ですが、ここにもある種の問題が潜んでいるように感じます。
この純粋な願いが、気づかないうちに「わたしの気持ちを察して、わたしが望む通りに行動するべきだ」という、他者へのコントロール欲求へと変質してしまうことがある。

「我慢していたから、もう限界だった」「あんなことを言われて傷ついたから、言い返すしかなかった」。

これらの言葉は、強い正当性を持っているように聞こえます。
確かに、我慢や痛みは尊重されるべきでしょう。
しかし、その言葉を盾にして、相手を一方的に断罪したり、自分の攻撃的な言動をすべて正当化したりしていないでしょうか。
それは、相手を自分の感情を調整するための装置のように扱ってしまうことにも繋がりかねません。
その在り方が、理解を超えた異質さとして感じられて、どうしようもなく行き場のない不快感を覚えるのです。

人は誰しも、自分を守りたい生き物です。
これ以上傷つきたくないという思いから、心の扉を固く閉ざし、自己防衛の殻にこもってしまうことが割とあります。

しかし、問題なのは、その安全な殻の内側から、他人に対して「変わってほしい」「わかってほしい」と要求してしまう、その矛盾した構造なのではないかと、わたしは考えています。
自分は傷つくリスクを負わずに、相手にだけ変化や理解を求めるような一方的なコミュニケーションは、健全な信頼関係を築く上での大きな妨げとなります。
どんなに親しい間柄であっても、そうしたアンバランスな要求を突きつけられ続ければ、関係が壊れてしまうのは、ある意味で必然的な結果なのかもしれません。

口を閉ざし、当たり障りのない言葉だけを交わし続けることが、正解なのでしょうか。
結局のところ、安易な答えなど存在しないのだと思います。

本音という言葉が持つ危うさを自覚すること。
自分の言葉が、相手に届く前に、まず自分自身の心の中でどんな形をしているのかを、静かに見つめてみること。
そして、相手にも自分と同じように、守りたい心や、譲れない価値観があるのだと想像すること。

人と人が本当に心を通わせるというのは、もしかしたら、そうした果てしない内省と、他者への想像力を絶えず働かせる、非常に繊細で、骨の折れる作業なのかもしれません。

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