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理解の孤独

理解の孤独

投稿した日
2025/05/22
読了まで
3.52分で読み終われます (2,110文字)

お久しぶりです。すっかり筆不精になってしまっていました。
散々SNS上で騒いでいたように、後回しにしまくった課題の山に埋もれておりまして…
大学のレポートが終わらなくて本当に死にそうです。
もう、何というか、キャパオーバーなんですかね。
いっそ清々しいほどにやる気が消失したので、半ば現実逃避のように、溜まりに溜まった下書き記事の山からブログを更新しようと思い至った次第です。


私たちは本当に誰かを「わかる」ことができるのか

私たちの心の中には、きっと、自分自身でもその全貌を完全には掴みきれていない、複雑で広大な庭園が広がっているのかもしれません。
丁寧に手入れをされた色とりどりの花壇もあれば、名も知らぬ草木が鬱蒼と茂る、誰も足を踏み入れたことのない薄暗い茂みも、きっと存在していることでしょう。
そんな、絶えず変化し続ける心の庭を、他人がそっくりそのまま理解し、その隅々まで把握するなんてことは、果たして本当に可能なことなのでしょうか。

誰かを本当にわかったと感じ入る瞬間、それはもしかすると、その方の庭園の、ほんの一部分、それも自分にとって心地よく、見慣れた風景だけを切り取って、そこに自身の理想や期待を歪めて映し出しているに過ぎないのかもしれない…そんな考えが、ふと頭をよぎることがあります。
それは、どこか皮肉なことのようにも感じられるのです。
いちばん相手を理解できたと確信するその時ほど、私たちは無意識のうちに、相手の存在を、自分だけの限られた解釈の檻に閉じ込めてしまっているのかもしれません。

「わかるよ」という言葉が、時としてひどく軽く、空虚な響きを伴って感じられるのは、おそらく、そのような理由からなのではないでしょうか。
私たちが差し伸べる理解という手は、相手の内に秘められた複雑さや、言葉にはならない想いの深さを十分に掬い取ることができず、自身の理解の範囲という、ともすれば窮屈な枠組みの中に押し込めてしまうような、そんな危うさすら孕んでいるように思うのです。
なぜなら、人間というのは、それほど単純な存在ではないと、わたしは常々感じていますから。
昨日まで確かなものとして信じていたものが、今日には不確かなものとして揺らぎ、自分自身でも容易には説明できない感情の波に心が揺さぶられる。
そんな、捉えどころがなく、時として矛盾さえ抱えた存在のことを、どうして他者がいとも簡単に軽率に「わかる」などと断言できるものでしょうか。

だからこそ、相手を受け入れるということは、相手が自分の期待通りに振る舞ってくれることでも、自身の価値観に完全に共感してくれることでもないのかもしれない、とわたしは思います。
むしろ、それは相手のわからなさを、どうしようもない事実としてただ認識し、互いの領域を侵さないための、ある種の消極的な静観に近いのかもしれません。
相手が自分の理解や予想をふわりと超えて、「ああ、やはりこの人も私とは違うのだ」と再認識する。
そのどうしようもない他者性を前に、諦めに似たため息をつくこと。
それが、他者と関わるということの、一つのリアルな姿なのかもしれません。

人と人は、究極的には、互いを完全に理解し合うことはできない。
この言葉だけを切り取れば、どこか冷たく、寂寥感を伴う響きがあるかもしれません。
けれど、わたしは近頃、この変えようのない事実にこそ、ある種の諦めと共に、目を向けるべきではないかと感じるのです。

完全に分かり合えないという絶望的な事実があるからこそ、私たちは言葉を費やし、相手の輪郭を必死に探ろうとするのかもしれません。
しかし、その探求の果てに待っているのは、真の理解ではなく、むしろ分かり合えなさの再確認であることの方が多いのではないでしょうか。
お互いがそれぞれ独立した、決して交わることのないパーソナリティーを持っていることを認め合う。
それは、ある意味で、互いの孤独を静かに肯定し合う寂しい行為なのかもしれません。

自身の理解の範疇を時に超える他者を、そのままの形で、遠巻きに眺める。それは、相手を自分の理解の枠に押し込めるという、ある種の知的暴力を放棄するということなのかもしれません。
相手を分かろうとすることは、時として、相手の自由なあり方を歪め、自分のエゴを満足させるための行為に繋がりかねない。
そう考えると、互いに深く踏み込まず、理解し合うことを最初から放棄する方が、よほど誠実な関係と思えてきます。

あなたのこともわたしのことも、結局わからない。

「あなたのことは、結局わからない。そして、あなたもわたしのことを、本当にわかることはないでしょう」

もし、心の中でそう呟きながら人と向き合うことができるのなら、私たちはもっと、互いの存在を侵さずにいられるのかもしれません。
分かり合うという甘美な幻想は、時として互いを傷つけ、不要な期待と失望を生むだけなのかもしれない。
それならば、永遠に分かり合えないという冷たい真実を抱きしめながら、互いの不可侵な孤独を静かに尊重し合うこと。
そこにこそ、人間関係における、ある種の悲しく誠実な着地点があるのではないかと、そんな皮肉な結論に、わたしは辿り着きつつあります。

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