もう、うんざりです。普段は「バカな発言だな〜」と思ってもスルーしていますが、最近あまりにも目に余るのでお気持ちが溢れています。
SNSを開けば「男女の友情はありなし?」みたいな低レベルな議論。あるいは「私、女の子大好きなんで!」みたいな、聞いてもいない性的アピール。
こういう人、皆さんの周りにもいませんでしたか?いますよね。少なくとも私の周りには結構いました。
よく言えば恋愛体質な子が友達に多かったので、こういう性愛中心の話題を聞かされることは多々ありました。
正直、こういう話題自体が大嫌いなのですが、友達である以上、適当に相槌を打ってスルーしていました。でも最近、ネット上でもこの手の言説があまりにも目につきすぎて、さすがに許容範囲を超えました。てかシンプルに、非常に、気持ち悪いです。いい歳をして、恥ずかしくないんでしょうか。
これは考察でもなんでもありません。私の視界に入ってくる社会性のない振る舞いに対する、ただの不満であり、ただのお気持ち表明です。
# 理性を否定する議論の無意味さ
まず、定期的に繰り返される「男女の友情は成立するか」という問いについて。いい歳をした大人たちがこの議論に熱を上げているのを見ると、人間の精神的成熟とは一体何なのかと疑いたくなります。
この議論の前提には、男女が接触すれば、必ず(特に男性側が)性的な感情を持つはずだという、極めて動物的な決定論があります。しかし、もしそれが真理だとしたら、私たちの社会活動はすべて破綻します。
職場であれ学校であれ、まともな理性・感性を持ち合わせた人間であれば、相手を無条件に性的なオブジェクトとして消費したりしません。相手を一人の人間として認識するよりも先に、オスとメスという生物学的な区分でしか関係性を定義できない。それは、自らの理性の欠如を告白しているに等しい行為です。
そのような未熟な前提を大人の恋愛論のように語ることは、人間の知性に対する冒涜ではないでしょうか。
# 無害な性と有害な性のダブスタ
次に、昨今の多様性の文脈でよく目にする、「私、女の子大好きなんです♡」といった、公共の場での性的指向の開示について。ここで私が違和感を覚えるのは、発言の内容そのものではなく、それを許容する社会の判定基準の曖昧さと残酷さです。
想像してみてください。生え際が寂しく後退し、肌はクレーターのように荒れ、脂性肌でテカテカと光っている。近づけばツンとしたアンモニア臭が漂うのに、本人はその悪臭を微塵も自覚せず、自分のことをごく普通のフツメンだと信じて疑わない中年男性。
もし彼が、公の場で「俺は若い女の子が大好きだ!」と大声で宣言したらどうなるでしょうか。即座に悲鳴と共に拒絶され、「セクハラだ」「通報しろ」と社会的に抹殺されるはずです。それは聞きたくもない他者の生々しい性欲に対する、至極真っ当な防衛反応です。
しかし、なぜか女性やマイノリティが同じ質量の性的欲求を口にしても、個性や自己表現として受容されてしまう。ここには、社会全体が内面化しているうっすらとした男性嫌悪、所謂ミサンドリーのようなバイアスが存在しているように思えてなりません。
# 優劣と差別
私たちは無意識のうちに、性欲に審美的な優劣をつけている。だから、清潔感のある女性が性的な話をしてもどうせ実害はないと高を括り、逆に小汚いおじさんが口を開けば実害があると判定して過剰に警戒する。
つまり、社会は無意識に男性の性欲=制御不能な猛獣、女性の性欲=去勢された愛玩動物という格付けを行っているのです。一見、女性の発言が許容され優遇されているように見えますが、これは裏を返せば女性には他者を脅かすほどの主体性も、性的なエネルギーもないと高を括られているに過ぎません。女性の性欲は綺麗で尊い(だから公言してもいい)という幻想は、女性を人間として対等に見ていないからこそ成立する、非常にグロテスクな保護と言って差し支えないでしょう。
この構造は、男性をその容姿や属性で不当に貶めていると同時に、女性を加害性含む性的な主体性を持たない、無力で愛玩的な存在とみなす、逆説的な差別でもあります。この歪さに無自覚なまま、多様性という言葉でコーティングされた性的発言が飛び交う現状は、健全な状態とは言えないはずです。
# ありのままの傲慢
誤解を恐れずに言えば、私はその人の性的指向や性自認といったパラメータが何であれ、最低限のTPOすらも守れない知性の足りない人間に強い拒否感を覚えます。
ありのままの自分を肯定することは、他者の領域に土足で踏み込んでいい理由にはなりません。なぜ彼ら彼女らの振る舞いがこれほど不快なのか。それは、社会生活を営む上で支払うべき配慮というコストを周囲に押し付けているからです。
私たちは皆、本能や自我を理性でフィルタリングし、摩擦が起きないよう調整して生きています。その労力を放棄し、生の欲望を垂れ流しておきながら、「それを受け入れない社会が悪い」と被害者ぶって居直る。それは自由への渇望などではなく、単なる甘えと怠慢に過ぎません。多様性という言葉を免罪符にして、理性を放棄した人間を私は評価しません。
# 個としての作法
結局のところ、私たちが目指すべき多様性のある社会とは、互いの属性を大声で発表し合い、褒め称え合う社会などではありません。むしろ逆です。隣に誰がいようと、何が好きだろうと、互いに干渉せず、気にも留めない冷ややかな無関心が徹底された社会こそが、最も生きやすい場所なのではないでしょうか。
そうでなければ、多様性なんてモノはとっくに破綻しています。
考えてもみてください。あのおじさんの性欲は気持ち悪いから排除するけれど、私のそれは尊い個性だから受け入れろなんて理屈が通るわけないんですよ。当人を当人として消化できない時点で破綻しているのに、その致命的な欠陥を見て見ぬふりして、ありのままだの理解だの、耳触りのいい綺麗事ばかりを並べ表面だけを繕うのはやめてくれませんか。
文明とは、ある意味で人間が自らの性欲や排泄欲、暴力性といった獣性を、うまいこと隠すことによって成立させたシステムです。それを解放することが多様性だと本気で思っているなら、どうぞそのアンモニア臭のするおじさんの性欲も、同じ笑顔で抱きしめてあげてください。
それができないなら、自分の性欲だけを多様性の箱に入れてラッピングして差し出してくるのは、随分と都合のいい傲慢な仕様だと思いますよ。

