刹那の優越
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誰かの些細な自慢話や、SNSのタイムラインを彩る華やかな投稿。
それらがふと目に入った瞬間、胸の奥が形容しがたい感覚に包まれることはありませんか。
わたしはかなり頻繁にあります。
そして、その胸騒ぎを鎮めようと、無意識のうちに相手の欠点を探し、そっと相手を見下してしてしまう自分がいるのです。
ほんの一瞬だけ、自分が優位に立てたような錯覚に陥り、束の間の安堵感を得る。
けれど、その直後に訪れるのは、決まって猛烈な自己嫌悪の嵐。
この、他人を貶めることでしか得られないかのような刹那的な安堵と、その後に必ずやってくる深い自己嫌悪という負のサイクル。
これこそが、人を貶めることでしか得られない幸福感というものの本質なのではないかと、わたしは感ぜずにはいられません。
一体なぜ、他者を心の中で見下したり、その価値を自分の中で密かに引き下げることで、一時的にでも心が満たされてしまうのでしょうか。
深く自己を省みるとき、それはやはり、根深い自己不信や肯定感の欠如に起因しているのではないか、そう思わざるを得ないのです。
周囲の誰もが自分よりも知性に溢れ、魅力的に見え、確固たる目標に向かって輝いているように感じられるとき、わたしはしばしば、自分自身の存在価値を見失いそうになります。
そんな精神状態のとき、他者の欠点や弱さを見つけると、「完璧な人間などいないのだ」という一種の安堵を覚え、極論すれば「自分の方がまだましなのではないか」とさえ感じてしまう。
本当に、ほんの一瞬の、刹那的な感情に過ぎないのですが。
現代社会は、SNSなどを通じて他者の成功や充実した生活が容易に可視化される構造になっています。
それらを目にするたび、否応なく自身と比較し、劣等感に苛まれる。
そんな心理状態のとき、つい「あの華やかな投稿も、実態は異なるのかもしれない」とか「実はあの人も、見えないところで苦労しているのかもしれない」といった想像を巡らせ、時には友人とそのような話題で束の間の共感を覚えてしまうことすらあるのです。
その瞬間は、ある種の連帯感にも似た感情を抱くのですが、一人静かに内省すると、言いようのない虚しさと自己嫌悪に襲われる。
この感覚の変遷は、一体何を意味するのでしょう。
このような情緒の揺らぎは、ストレスや、将来に対する漠然とした不安、そういった負の感情の一時的な逃避行動なのでしょうか。
しかし、それは結局のところ、対症療法にも満たないその場しのぎの気休めでしかなく、根本的な問題の解決には全く寄与していないことは自明です。
むしろ、そのような行為を繰り返すうちに、自己の品性や人間性が徐々に損なわれていくような感覚があり、強い恐れを覚えるのです。
そして、この感覚こそが、将来の自分の首を絞めつけているように思えるという恐怖感の正体なのかもしれない、と。
他人を貶めることから得られるものは、ほんの一瞬の歪んだ満足感に過ぎないのに対し、その行為によってわたしが失うものは、あまりにも大きい。そう感じずにはいられないのです。
他者との真実の関係性を築くことが、ますます困難になっていくように感じます。
陰で誰かの価値を貶めるような人間性を、わたし自身が他者に見抜かれたくないと思うように、他者もまた、そのような人間と心からの信頼関係を築こうとは思わないでしょう。
表面的な交流は可能だとしても、そこには常に薄氷を踏むような危うさが伴い、心の奥底では互いに不信感を抱いたままなのではないでしょうか。
気づいた時には、本当に心を許せる存在がおらず、根源的な孤独に苛まれることになる。
わたしは、その見えない壁が、じわじわと自分自身を孤立させていく様を、ただ黙って見ているしかないような無力感に襲われるのです。
この感覚は、どこかフーコーの言うまなざしの内面化にも通じるものがあるのかもしれません。
他人の欠点を探し、自分と比較して安心感を得ようとすることに精神的なエネルギーを費やしている間、私は現実から逃避しているに等しい。
本来であれば、他者の優れた点から学びを得たり、自身の未熟さを認識して努力の糧としたりするべき時間を、わたしは不毛な比較と自己欺瞞に浪費してしまっているのかもしれません。
この思考の浪費は、一体どこへ行き着くのでしょうか。
他人を貶めた後に必ず訪れる自己嫌悪は、確実に心を蝕んでいきます。
一度この負の感情のループに陥ると、なかなか抜け出すことができません。息苦しくて、どこにも逃げ場がないような、そんな感覚に囚われてしまうのです。
だからといってどうにかできるわけではないのですが。