情報の波、思考の凪
目次はありません。
ふとSNSのタイムラインを眺めていると、いつも同じ、やり場のない感覚に襲われることがあります。
流れてくる投稿の中に、あまりにも多く見かける、ある種の空疎さについてです。
どこかで聞きかじったような名言もどきを、さも自分の言葉であるかのように貼り付けたり、あるいは、ただ「私を見て」「私を認めて」という承認欲求を、回りくどい言い方で透けさせていたり。
そんな投稿が次から次へと流れてくるのを目にしていると、胸の中にどんよりとした澱が溜まっていくのを感じるのです。
もし、人が自らの頭で考え、感じたことを、たとえ拙くとも自分の言葉で表現しようと努めているのなら、そこには何かしら心を動かすものが宿るのかもしれません。
不器用でも、その人自身の輪郭が感じられるような。
けれど、わたしが画面越しにしばしば目にするのは、残念ながらそれとは違う、誰かの言葉の借り物か、あるいは痛々しいほどの自己顕示なのです。
それらを目にするたびに、「一体、何のためにその頭はついているの」と、つい言ってしまいそうになります。
自らの内側から湧き上がる言葉を持たず、ただ外部から借りてきた装飾や、他者からの承認にのみ価値を見出しているかのような、その空虚さ。
その在り方が、理解を超えた異質さとして感じられて、どうしようもなく行き場のない不快感を感じるのです。
彼女らの借り物の言葉の連なりや、透けて見える承認欲求を目で追っていると、まるで自分だけが異なる価値観でそれらを見ているような、あるいは意味のない記号の羅列を眺めているかのような、強い違和感に襲われます。
言葉は並んでいるはずなのに、そこに本人の思考や実感が伴っていないのが透けて見えて、まるで書き割りの背景を眺めているような感覚。
それは寂しさというよりは、埋めようのない空虚さを突きつけられているような、密やかで冷たい感覚でした。
かつては多様な考えに触れることを楽しめたはずの場所が、今はまるで空っぽな言葉が反響するだけの空間のように感じられてしまう。
興味深いと感じる投稿を探そうとしても、その多くが借り物感や承認欲求に覆われていることに気づいてしまい、画面をスクロールする指が重くなるのです。
かつての私が、たしかに感じていたはずの、他者の思考に触れる喜びは、長い年月の中で磨耗し、すっかり色褪せてしまったようです。
その代わりに心の中に残っていたのは、理解不能なものに対する疲労感だけでした。
結局のところ、自分はこの空虚な情報の流れに対して、ただ無感覚になるか、距離を置くことしかできない存在なのではないか。
そんな諦めに似た何とも形容しがたい考えが、不意に頭をもたげます。
「何のために頭がついているのか」という問いが、まるで自分自身にも向けられているかのように、不意に、そして頻繁に意識をかすめるのです。
それは、彼女らへの批判であると同時に、そんな彼女らに苛立ち、心をすり減らしている自分への、静かな自問なのかもしれません。
この憂鬱の中で、かつては発見や共感があったはずのSNSが、今はただ精神的な消耗を招くだけの場所になっています。
どうして、かくも多くの人が、自らの言葉で語ることをせず、借り物の輝きや他者の承認ばかりを追い求めてしまうのか。
その答えを探そうとしても、思考はタイムラインの投稿のように上滑りするばかりで、納得のいく結論は見つかりませんでした。
こうして言葉を連ねていると、少しだけ胸のつかえが降りるような気もします。
結局のところ、こんな風に独りごちて、自分の中に溜まった鬱々とした感情を吐き出すくらいしかできないのでしょう。
画面の向こうの、顔も知らない誰かに向かって、このやるせなさや疑問をぶつけるほどの度胸もありませんから。