執着
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近頃、人間関係や、あるいはもっと広く物事全般において、ある種の逆説的な法則のようなものを感じることがあります。
具体的に言えば、「他者からどう思われても構わない」という、ある種の諦念にも似た心境に至ったとき、不思議と以前よりも他者との関係性が円滑になったり、精神的な負荷が軽減されたりする、という現象です。
逆に、「好かれたい」「認められたい」という欲求が前面に出過ぎると、かえって事態が悪化する、あるいは少なくとも好転しない、という経験は、おそらく多くの人にも覚えがあるのではないでしょうか。
わたしたち人間は、意識的か無意識的かに関わらず、常に他者の評価や期待というものに晒され、また、それらを内面化して自己の行動規範を形成している側面があるように感じます。
「こうあるべき」「こうしなければならない」という規範は、社会生活を営む上で必要なものではありますが、それが過剰になると、自己を不必要に縛り付け、精神的な自由を奪う要因となり得る。
わたし自身、そうした自己矛盾や葛藤に苛まれることは決して少なくありません。
しかし、ある時期を境に、そうした強迫観念にも似た執着から、ふと距離を置くことができる瞬間がありました。
それは何か劇的な出来事があったわけではなく、むしろ日々の些細な経験の積み重ねの中で、徐々に形成されてきた感覚とでも言うべきものです。
「結果がどうであれ、それはそれとして受け入れるしかない」という、ある種の諦観に近いかもしれません。
そうした心持ちで物事に臨むようになってから、以前はあれほどまでに渇望していたものが、まるで向こうから近づいてくるかのように、自然な形で手に入るようになった、と感じることが増えたのです。
これは、心理学的な説明も可能なのでしょうが、わたし個人の実感としては、過度な執着が、対象に対する純粋な関心や、自己の自然な振る舞いを歪めていたのではないか、ということです。
執着を手放すことで、余計な力が抜け、より本質的な部分で対象と向き合えるようになる。
その結果、以前は見過ごしていた機微や、より適切な方法に気づくことができるようになるのかもしれません。
もちろん、言うまでもなく、執着を完全に消し去ることは困難ですし、それが必ずしも常に正しいとは限りません。
特に、わたしのような感情の振れ幅が大きく、些細なことで思考が囚われやすい人には、意識的に執着から距離を置こうとすること自体が新たな執着を生む可能性すら孕んでいます。
このあたりの機微は、非常に厄介なものだと常々感じています。
それでも、自己の内面と向き合い、自らの思考や感情のパターンを客観的に観察しようと努める中で、手放すという行為がもたらす、ある種の解放感や、そこから派生する予期せぬ肯定的な結果というものは、確かに存在するように思えるのです。
それは、人間関係に限らず、学業や仕事、あるいはもっと些末な日常の出来事においても、同様の構造が見られるのではないかと、わたしは考えています。