生成AIがなんだ
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どうも、わたしです。
最初に断っておきますが、私は所謂お絵かきの人間ではありません。
普段は創作とは直接関係のない領域でエンジニアのような業務に携わり、余暇にデザインや映像制作を細々と行う程度です。
幸いにも有償での依頼や企業案件と呼べる経験も僅かながらありますが、それだけで生計を立てられるほどの技術も影響力も持ち合わせていません。
そのような中途半端な立ち位置から、昨今の生成AIをめぐる議論を観察していると、その顕著な温度差に一種の戸惑いを覚え、気持ち悪ささえ感じることがあります。
私自身、現時点では創作活動に生成AIを利用していません。
技術そのものへの嫌悪感はなく、むしろその技術的側面には強い関心を抱いていますが、利用をためらう主な理由は、SNSなどで散見される、まるで異端審問のような過剰な魔女狩りへの恐れです。
もし、誰からも後ろ指をさされることのない条件が整うなら、喜んで飛びつくでしょう。
しかしながら、技術的な仕組みや関連法規、一次資料にあたることなく、「とにかく素晴らしい」「絶対的な悪だ」といった二元論的な主張を声高に叫ぶ人々には、それが推進派であれ反対派であれ、同程度の疲労感を禁じ得ません。
故に、ここで一度立ち止まり、この技術と自身の距離感について、改めて考えを整理しておこうと思った次第です。
この議論が著しく複雑化する根本的な要因として、まずAIという用語が指し示す対象範囲の過剰な広さが挙げられます。
一般に、AIは記号論理に基づくエキスパートシステムから、ニューラルネットワーク、機械学習へと至る多様な技術群の総称です。
極端な話、工場のラインを制御し、外乱に対して系を安定させるPID制御だって、見方によっては知能の現れだと主張することさえできてしまいます。
我々が日常的に利用するAmazonのレコンドエンジンやDeepL Translatorは、統計学と機械学習、深層学習技術の結晶です。
YouTubeの動画推薦アルゴリズムが深層学習に基づいていることはGoogle自身が論文で公表していますし、TwitterもレコンドアルゴリズムをGitHub上で公開しています。
現在、社会的な注目を集めている生成AIは、これら広範な技術、特に深層学習という基盤の上に位置づけられる、特定の一分野に過ぎません。
にもかかわらず、「AIは善か悪か」といった問いかけが、どの技術レイヤー、あるいはどの具体的な実装を対象としているのか不明瞭なまま交わされています。
これでは建設的な対話は望めません。
そして、このAIという言葉の曖昧さに関連して、私が強い違和感を覚えるのが、主張のダブルスタンダードです。
我々は、Google検索の最適化された結果に日常的に依存し、Netflixのレコメンドアルゴリズムが提示するコンテンツを享受し、DeepLやPLaMoに甘やかされて生きています。
これらは狭義の生成AIではないものの、紛れもなくAI技術の恩恵です。
にもかかわらず、AI反対を唱えながら、その主張の発信にパーソナライズされたSNSを利用し、情報収集にGoogleを用い、海外情報の参照にDeepLやPLaMoを活用するといった状況が平然と観測されます。
AI技術の恩恵を浴びるだけ浴びておきながら、特定の領域にAIが踏み入った途端、手のひらを返したように拒絶反応を示す態度は、率直に言ってご都合主義が過ぎるのではないかと感じます。
もし本気でAIという技術概念そのものを拒絶するのであれば、その論理的帰結は、現代社会の利便性の多くを放棄することに他ならないはずです。
それこそユナボマーのように山中で自給自足の生活を送る覚悟があるというのなら、その主張には一貫性があると言えるかもしれませんが。
また、AIの学習を単純な盗用と同一視する言説も散見されますが、これも技術的なプロセスへの理解不足から来る感情的な反発に過ぎないように見受けられます。
もちろん、生成物が既存の著作物と酷似する依拠性の問題は別途、法的に議論されるべきですが、学習データセットから統計的なパターンを抽出する行為そのものを、即座に盗用と呼ぶのは、人間が過去の偉大な作品群から様式や技法を学ぶ行為まで盗用と呼ぶに等しい、あまりにも乱暴なレッテル貼りではないでしょうか。
では、生成AIのリスク、特に著作権に関する現行の法的枠組みはどうなっているのでしょうか。
重要なのは、2018年の著作権法改正で導入された柔軟な権利制限規定、とりわけ第30条の4です。
極めて簡潔に要約すれば、思想又は感情の享受を目的としない利用(情報解析、機械学習用途でのデータ利用等)は、著作権者の利益を不当に害する場合を除き、許諾なく行えるとする規定です。
AIの学習データ利用は、現時点ではこの条文が主要な法的根拠の一つと解釈されています。
文化庁は2024年に「AIと著作権に関する考え方」を取りまとめ、学習段階と生成・利用段階に分けて現行法下での解釈と論点を整理しました。
ただし、これらはあくまで現行法の解釈指針やガイドラインの提示であり、最終的な法的判断は個別の事案における司法判断に委ねられます。
つまり、法的なグレーゾーンは依然として広範に存在するわけです。
そして、この著作権の問題において、特に感情的な対立を招きやすいのが二次創作との対比です。
私自身も所謂オタク文化に親しんでいるため、この論点には慎重にならざるを得ません。
法律の条文に照らせば、二次創作は二次的著作物に該当し、その創作および利用には、原則として原著作物の権利者の許諾が必要です。
しかし、現実には広範な二次創作文化が、権利者によるガイドラインの策定や黙認といった、極めてデリケートな均衡の上に成り立っています。
これは法律上の当然の権利ではありません。
ここで、AIの学習と二次創作の法的な位置づけを比較すると、現行の日本法下では明確に異なる規律が適用されていることがわかります。
AI学習は、一定条件下で著作権法第30条の4という権利制限規定の射程内とされる一方、二次創作は原著作者の権利への配慮(許諾または黙認)が前提となります。
この法的な枠組みの違いを意図的にか、あるいは無理解からか無視して、「AIによる無許諾学習は著作権侵害であり許されないが、自身の行う無許諾の二次創作は文化として許容されるべきだ」と主張することは、法制度上の整合性を著しく欠く議論であると断じざるを得ません。
自らの二次創作活動が依拠する黙認という極めて不安定な砂上の楼閣には無自覚なまま、法的根拠に基づこうとするAI開発側を泥棒と断じるのは、自己の立場を客観視できていない証左ではないでしょうか。
必要なのは感情論で法解釈をねじ曲げることではなく、法と運用の筋を通した議論のはずです。
「AIには魂がない」「人間の努力を愚弄している」といった情緒的な主張も、議論の場においてはノイズでしかありません。
技術の是非を問う議論において、定義不能な魂の有無や、個人の主観的な努力の感覚を持ち出すことは、論理的な対話を拒否しているのと同じです。
我々は日常的にAI技術の恩恵を享受しており、その事実を無視して、生成AIのみを特異点として拒絶する態度は、やはり論理的な一貫性を欠いています。
現代社会において、AI技術との関わりを完全に断つことは非現実的です。
だからこそ、思考停止に陥ることなく、個別の技術、サービス、運用状況を具体的に評価し、その都度、自身の立ち位置を判断していく必要があります。
そして最も唾棄すべきは、この種の議論(笑)で見られがちな選民意識ではないでしょうか。
「わたしの創作は特別だ」「絵師である自分はAIを使う人間や、ただの消費者よりも偉い」。
このような根拠のない特権意識は、建設的な対話を著しく阻害します。
我々の多くは、巨大な社会のエコシステムや経済圏の中では、代替可能な構成要素の一つに過ぎず、私を含めほぼ全ての人間はただのコマであることを自覚するべきです。
自らが(技術によって支えられたプラットフォーム上で)享受している消費者としての側面を棚に上げ、都合よく創造主として振る舞い、特権意識を振りかざす態度は、滑稽ですらあります。
他者を攻撃し、魔女狩りに興じる前に、まず自身の思考や言動の整合性を取ることに努めるべきだと、わたしは思います。
結局のところ、我々は日常的にAI技術の恩恵を享受しており、その事実を無視して、生成AIのみを特異点として拒絶する態度は、論理的な一貫性を欠いています。
現代社会において、AI技術との関わりを完全に断つことは非現実的です。
もし本気でAIという技術概念そのものが受け入れられないのであれば、その論理的帰結は、現代社会の利便性の全てを放棄することに他なりません。
それこそGoogleもSNSも使わず、ユナボマーのように山中で文明と隔絶した生活を送る覚悟でもない限り、その主張は単なる自己矛盾であり、稚拙で傲慢な子供の主張と何ら変わりはないでしょう。
あ、私はAI推進派でも反対派でもありませんよ。悪しからず。

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